サドル狂騒曲90 ソドムの男達
年末に泊まった部屋のベッドに青葉をそっと横たえると、恭平は胸元に手を回しブラウスのボタンを外して肩口からずらした。白い小さな背中に、赤黒い鞭の跡が縦横無尽に走り、所々に張られた絆創膏には赤い血が滲んでいる。傍らで見ていた雄太は拳を握りしめて低く唸った。
「 契約違反だ。投資対象の価値を下げた上に命の危険に晒した。この取引はご破算にして卿を傷害致傷で訴えてやる 」
「 青葉がナイフで卿を切りつけたんだ。それで卿が怒り狂って鞭でメッタ打ちにした 」
「 何だって… どうしてそんな… 」
青葉の服を元に戻すと恭平は部屋を出た。雄太は混乱しながらも状況を整理する。自分の意思で出向いた青葉が、自分を守るために刃物を振るうとは考えづらい。そうなると誰かをかばうために、卿を手にかけた。
ならば守る相手は恭平しか考えられない。だがそれを問われる事を恭平は拒んでいるように雄太は感じていた。この部屋に入ってから恭平は雄太と目を合わせようとしない。それは体よりも心に深い傷を負っている証拠だと雄太は悟っていた。その傷を恭平に与えたのは幣原卿しかいないのは明らかだ。それが何か、全てを受け入れるためには、躊躇せず踏み込まなければいけない。青葉の背を撫でると、雄太は部屋の明かりを消してドアを閉めた。
雄太がリビングの扉を開けると、恭平は窓際に立っていた。灯りのない部屋をわずかに照らすのは通りの街灯だけで、目をこらして見ないと恭平の背は闇に紛れて見えない。雄太はゆっくり恭平に近づいた。明らかに憔悴しきった後ろ姿が痛々しくて、思い切り抱きしめたい衝動にかられてはやる指先を雄太は押さえる。別れを告げられたあの日で恭平と共に過ごした時計の針は止まった。今それを強引に巻き戻しても離れた心が再びすり合う術はない。わかっているはずの雄太の心臓はそれでも恭平の沈んだオーラを包むように大きく脈打つ。恭平の冷えた体を温める熱が雄太の指先から流れて夜の天井に上がっていくと、押さえられない愛しさと切なさが背中を押した。
雄太の手が恭平の髪に触れる。だが恭平は動かずにガラスの向こうにある沈黙に浸っていた。
「 髪が、乱れている 」
雄太が静かに黒髪を撫でると、わずかに二人の間の空気が揺れた。それが恭平のすすり泣く声に変わると、雄太は震える背中に両手を回した。
恭平の首から肩にかけて邪気を含んだ獣の匂いが鼻をつく。雄太の全身に悪寒と戦慄が走り、同時に恭平の身に起こった惨劇を悟ると、雄太は恭平の首筋に顔を埋めた。
「 青葉を救ってくれてありがとう 」
「 違う。俺は何も出来なかった 」
こぼれる涙が雄太の手の甲にいくつも真珠の粒を作る。恭平がこんな泣き方をするのは初めてだった。
「 青葉は、俺を助けようとして鞭で打たれた。三条会長と相本部長が助けに来なかったら、今頃俺たちは… 」
「 何も言わなくていい。こうしてここにいてくれたらそれでいいんだ」
手で顔を覆う恭平の口から、絞るような嗚咽が漏れた。
「 手を、離して 」
「 恭平… 」
「 俺には青葉を愛する資格もないし雄太に愛される資格もない 」
顔を上げて恭平の正面に回ると雄太は恭平の手を顔から外し、青白い頬を伝う涙を拭った。既に受け入れる気持ちの準備は出来ている一方で、恭平の傷ついた心を包む術を必死で探す雄太の胸に、初めて愛を告白した港の風景が浮かんだ。
「 俺は、幣原卿に犯された 」
冷たく固い杭が背に打ち込まれる。だが雄太はその衝撃を全身で受け止めると、恭平を強く抱きしめた。
神よ、俺をいくらでも傷つければいい。恭平の痛みと苦しみをこの身で分かち合えるなら、寿命など半分持ち去られても構わない。
雄太の抱擁を受けて恭平の体から僅かづつ邪気が抜けていく。毒に犯されても尚、憔悴と陰りを壮絶な美しさに変えて妖艶な光を帯びるその体は愛しさよりも畏怖の念を雄太に感じさせた。
「 そうか、辛かったな 」
「 もう、生きていたくない… 」
「 バカ、お前が死ぬなら、俺が先に逝くよ 」
軽く唇を重ねた後、雄太は手を恭平の腰に滑らせ優しく愛撫する。慣れ親しんだその感触に身を委ねた恭平は雄太の胸に顔を埋めた。
「 俺たちの魂は、ひとつだ 」
「 … わかってる 」
「 じゃあ、もうお前が苦しむ必要なんてないさ 」
やっと恭平は顔を上げて雄太を見た。互いに頬を寄せ合い、耳元に熱い息を送り込むと, 壊れかけた心が元の形に近づいていく。恭平は首の包帯を外した。残酷な爪痕に唇を這わせる雄太の手が恭平のシャツのボタンに触れると、二人同時に床に崩れ落ちた。
闇は、張り詰めた男たちに加担して沈んだ痛みと行き場のない涙を掬い上げては溶かしていく。徐々に激しくなる息遣いと、忘れかけていた肌の感触を思い出して言葉にしない愛が二人の絆を一気に深めて冷えた床に火花を散らした。
恭平が空に伸ばした手が雄太の手と絡まり強く握り合ったその向こうに、開いた寝室のドアにもたれた美奈子の白い影が見える。両手でドアの縁を握りしめて見えない目は真っすぐ二人の男たちの方に向けられたままだ。
美奈子は感覚で目の前の光景を脳裏に落とし込んでいた。
この強い匂いには覚えがある。リビングに入った時漂った香水と煙草の香りだ。美奈子は雄太の言葉を思い出した。
「 職場の同僚がよく遊びに来てたんだ。」
その時、これは女性じゃなくて男の人だとすぐに気づいた。だから、ベッドルームで同じ香りがした時も何も変に思わなかった。だけど今、この男2人から伝わる気配は普通じゃない。
縁を握る指の震えが腕から肩に広がり青ざめた頬を揺らす。例え見えなくても2人から激しく伝わる情の炎が、美奈子に全てを一瞬で思い知らせた。
ソドムの男。 彼は異端者…
あの日、キリスト像が美奈子に与えた衝撃が何を表していたのか知った美奈子は、低い男たちの喘ぐ声に祈る気力も失っていた。
続
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