サドル狂騒曲82 白いアベ・マリア
「 雄太さん、この人、どうしてセキュリティの番号を知っているのかしら 」
般若姫はドレスの白とは全く不釣り合いな冷たく固い顔を私に向けたまま雄太さんを問い詰める。雄太さんがすぐに姫の手を取って引き寄せると、姫は見せつけるように胸にしがみつく。
何、あの態度… 胸にチリチリと苛立ちが広がって、私は唇を噛んだ。
「 さっき話した友達とここに来た時教えたんだ。でも、ふたりきりになった訳じゃないよ 」
なだめるみたいに優しい雄太さんの口ぶりが更にイライラに拍車をかける。何よ、私のアパートに来て一晩ラブラブで(エッチしないけど)過ごしたじゃない?女嫌いだなんて言ってたくせに、そのお姫様には最初から優しくて、気を使ってちっとも雄太さんらしくない。あんなに愛していた恭平さんを切り捨ててまでそんなに跡継ぎが欲しいの?
「 今ちょっとお前と話す時間がないんだ。悪いが改めてくれないか 」
雄太さんは穏やかな口調で私を追い出そうとする。こんなの本当の雄太さんじゃない。もういい。何もかも捨てる準備は出来た。最後の務めは、この姫と雄太さんの関係を切って全てを元通りにする事だ。熱い塊がぐっと喉元までせりあがってくる。
「 雄太さん、私はこれから幣原様のところへ行って、約束を果たすつもりです」
「 何い?」
雄太さんの目が一瞬で据わった。かまわず私は言葉を続ける。
「 それが終わったら私は北海道へ帰ります。だからあなたも恭平さんも元の関係に戻って下さい 」
「 お前、正気か? 」
「 ねえ、この人何を言っているの?私に聞かせられない話なの? 」
「 美奈子、ごめん、後でちゃんと話すからしばらくあっちへ行って待っていて 」
優しい声で囁くと、雄太さんは姫を抱き上げて居間へ戻ろうとする。苛立ちの濁流が徐々に沸騰して私の体に流れていく。もう、この気持ちも目の前の二人も粉々に壊してしまいたい。
「 あなたが一緒にいるのはそんな我儘な女じゃないわ。本当に愛している人がいるのにどうして本当の気持ちから逃げようとするの 」
「 青葉、もう喋るな 」
「 いいえ、もうこんな変な演技はやめて!昔の雄太さんに戻って倶楽部の会員さんに乗馬を教えるように… 」
「 雄太さん、この女を早く追い出して。嫌な臭いがするの。田舎の泥みたいな変な匂い。気持ち悪い!早く追い出して!」
姫のヒステリックな声は私にあの忌まわしいシーンを蘇らせた。
臭いんだよ、田舎のドブ川みたいな匂い。
岸谷先輩が私に吐き捨てたあの言葉。私は人間と思われていない。生きていても喜ぶ人はいない。そうよ、私はどこにいても、一人。悲しみで揺れる声を押さえて軋んだ息を吐き出す。
「 わかったわよ、こっちだってあんたみたいな性悪と一緒にいたくないわ!」
「 待て、青葉!」
「 私にもう構わないで!」
「 行くんじゃない!行けばお前は… 」
突然姫が雄太さんの腕から離れて床に飛び降りた。私はその先の言葉を聞きたくなくて、内鍵に手をかけた。開いたドアの外から冷たい空気が私の頬を叩いて一瞬だけ我に返る。雄太さんが私の手を掴んだら、あの広い胸に抱いてくれてら、もう一度泣くことを許してほしい。
すごく好きだった、恭平さんもあなたも本当に好きだった
「 青葉、行くんじゃない! 」
乾いた絶叫が響いて、胸がドキッと波打った。何かを期待した私は振り返ってしまった。でも、私が見たのは…
居間の中へ駆け込む姫を追いかける雄太さんの背中が遠くなっていく。
イカナイデ ソバニイテ
私の短い祈りをかき消して、大きな扉は音もなく閉まった。
恭平は銀座の時計店で修理に出した腕時計を手にはめて具合を確かめた。
店のライトを淡く反射して鈍く光る銀の文字盤は使い込まれたほどに存在感を増す。その重みは白い恭平の腕にピタリとはまって体の一部のように深く寄り添う。恭平は愛おし気に撫でて外すとケースにしまった。
「 いつも調整してもらって助かります。使い方が乱暴なもので、泥と砂が基盤まで入ってしまう」
「 これくらいの汚れは大丈夫です。むしろ時計も使ってもらえて喜んでいるでしょう。コレクションとして飾られるだけでは勿体ない逸品です 」
初老の店員が笑って返すと恭平も笑みを浮かべた。バシュロンのスポーツウォッチは5年前のクリスマスにお互いに色違いでプレゼントした思い出の品だった。雄太が選んだブルーの基盤はまだ色あせずにその日の姿をとどめている。
俺が送ったのはシンプルな白だった。ユウはまだ持っているだろうか。
時計はあのころと変わらないのに、他は全て変わってしまった。こんな日が来るなんて、あの時は思ってもみなかったよ、ユウ。今お前は、どこで何をしているのかな。
恭平の胸のつぶやきは、窓の外を走る車の喧噪に流された。
「 今度女性用の見本を見せて下さい。フォーマルとカジュアルの2本が見てみたいので 」
「 女性用?お身内の方ですか 」
「 婚約者です 」
店員は驚いて恭平を見た。それ以上の質問を避けて恭平はポケットにケースを入れ出口に向かう。青葉にも白の時計を買ってやろう。そう思ってドアを押した途端、携帯電話から流れる着信音が他の全ての音を止めた。
シューベルトのアベ・マリア。それは雄太からの着信。
夜の顔に姿を変える細い路地を、恭平は携帯を握りしめ駈けだした。
続
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