サドル狂騒曲(番外編)青葉と恭平のオフィスラブ28 悲しい揚羽

私と恭平さんはほんの2メートルくらいの距離を挟んで見つめ合った。

少し痩せたかな。お気に入りの黒い木綿のシャツはいつも私がアイロンをかけたビームス。私以外の人には見せないと言っていた、ほどいたままの髪。隣の専務は、もう私を超えたんだ。一度に沢山の棘が胸に刺さって、声を出すのも辛い。

 進藤課長補佐は恭平さんを見て一瞬顔をこわばらせたけどすぐに落ち着いて私にそっと近寄った。

「 どうする。しばらく外そうか 」

「 お願いします 」

「 わかった 」

 そのまま彼は芝生を挟んでマリンショップの並ぶモールへ歩いていった。それとほぼ同時に三条専務も何か恭平さんに耳打ちして反対側の歩道へ歩いていく。他に人影はない。私は恭平さんに歩み寄った。

「 お久しぶりです 」

 恭平さんの顔には喜怒哀楽を感じさせる何かはない。私の言葉にも反応はなく、でも目は私をじっと捉えている。この人は、もう私が知っている彼じゃない。そう言い聞かせてもどこかに覚えている彼の仕草を探してしまう。だって離れていても、何もかも彼の事なら思い出せる。そのかけがえのない全てが消えてなくなっているなんて、まだ信じたくはない。

「 手を挙げて、酷い事まで言って悪かった 」

 そう言って恭平さんは頭を下げた。石みたいに固い声にまた私は打ちのめされる。

「 進藤課長補佐から少し恭平さんの生い立ちを聞きました 」

「 そう… じゃあもう説明は要らないね。これ以上、君と一緒にいるのはお互いにとって不幸なんだ。終わりにしよう 」

「 教えて下さい。そう思っていて、どうして私に告白したんですか 」

 恭平さんの口から苛立ち混じりのため息が漏れる。もう怒鳴られても怒られても構わない。きちんと彼の言葉で本当の事を知りたい。

「 あんなに優しくしてくれたのは、ただの気まぐれですか 」

「 君がそう思うならそれでいいよ 」

「 ちゃんと答えて 」

涙をこらえようとして歯を食いしばる。息が苦しい。今すぐ胸に飛び込んで泣きたい気持ちを抑えて、私は彼の目を見つめた。

「 たまたま若くて、世間知らずの女の子が目についたからちょっと遊んだ。意外と長く続いたけど、こっちの本性がばれたからこれが潮時。これで満足?」

最後は吐き捨てるような口調だった。

「 私は、どんな恭平さんでも受け入れる気です。それは今も変わっていません 」

「 君は何もわかっていない。本当の俺は、君を地獄に落とすだけだ 」

「 名前で呼んでくれないのね 」

「 もうそんな季節は終わったよ 」

息苦しさは眩暈に変わった。それでも私は気力で恭平さんと向き合う。例え無駄とわかっていても、自分の本心に嘘はつけない。

「 まだ、あなたを愛しています。だから… 」

「 別れよう。 俺は君に何の興味もない 」

胸に抱えていた塊が音を立てて破裂した。破片は容赦なく私の全身に刺さって音もなく血が流れていく。

「 雄太と付き合ってるんだろ。あいつなら君を幸せにできる。先は社長夫人だ。よかったね 」

「 そんな… 」

「 専務を待たせてるんだ。もう行くよ 」

「 待って下さい 」

 私は恭平さんのすぐ近くまで近寄った。

「 最後に、髪に触らせて… 」

 彼の頬の横で揺れる黒い絹糸に指を絡めた。風に揺れて伝わるトワレは前と変わっていない。良かった、思い出のピースをひとつだけ拾って連れて帰れる。笑顔を作ろう。楽しかった、ありがとうって言って別れよう。

  でも、彼の顔つきが急変して私の指は凍り付いた。昼下がりのホテルで私を殴った時と同じ鬼の化身が舞い降りて、私を睥睨している。

「 手を離せよ。気持ち悪い 」

  震えながら指を離すと、恭平さんはポケットからヘアゴムを出して髪を結ぶと私に背を向けて歩き出した。

  気づいたら、私の内側で流れていった血は歩道に広がり赤黒い染みになっている。これは幻覚?いいえ、はっきり見える。私の血はじわじわ広がって、遠くに去っていく恭平さんを追いかける。でも、彼は振り向かない。

  帰らなきゃ。私は振り返ろうとした。その瞬間頭がぐらりと揺れて意識が遠くなった。

  夕闇のオレンジがオセロの黒みたいに反転して、私はその場に倒れた。

  そして全ての記憶は、そこで途絶えた。



  走れ、振り向いて走れ。

  大きな声で叫ぶ声がして、恭平は振り返った。30メートル先で倒れている青葉の体が視界に入った。薄暮の港がそこだけ鮮やかに浮かび上がり、恭平は思わず声をあげそうになった。

  走れ、今ならまだ間に合う。今なら時間を巻き戻せる。

これは誰の声だ。きっと内なる自分が叫んでいる。恭平は自分の中に抑え込んだ青葉への愛が悲鳴を上げているのを感じて震えだした。青葉を突き放して全て終わらせた安堵感はただの偽りの演技に過ぎない。黒く呪われた血の下で叫ぶ声は恭平を覚醒させるべく突き動かす。恭平は走った。

 そうだ、走れ、走ってその名を呼ぶんだ、恭平。

 「 青葉 ! 」


 恭平が発しようとしたその言葉がリアルの空間を切り裂いて別の方向から飛んできた。わずか数メートルまで縮んだ距離を残して恭平は立ち止った。

 雄太が青葉に駆け寄り、何度もその名を呼んでいる。そうか、そうだったのか。胸に去来したのは安堵だったことに、恭平は少なからず驚いた。

 雄太は来ていた白いシャツを脱いで青葉の下半身に被せると、そのまま抱き上げて足早に歩き出した。褐色に焼けた剥き出しの背中は力強く、恭平の叫びを無遠慮に跳ね返す。恭平に一瞥もくれることはなく、その姿は黄昏に遠のく。

 もう青葉を守る手は、そこにあったんだ。いつかやってくると思っていた瞬間は、すでに終わっていたんだ。

 地面に青葉の履いていたヒールが片方だけ落ちている。ピンクベージュの控え目なデザインは見覚えがある。去年の夏、俺が青葉にサプライズで買ってやった靴だ。喜んで俺に抱きついた青葉の笑顔が浮かんだが、それはもう曖昧ではっきり見えない。恭平は背を向けて歩き出した。もう誰の声も聞こえない。これでいいんだ。青葉は、幸せを手に入れた。

 ヒールは青葉の黒い血の海の真ん中で徐々に溶けると、悲しい揚羽となり染み込むようにコンクリートの狭間に消えていく。

  宵闇がすぐそこに押し寄せて何もかもを黒く染めようとしている。



 

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