サドル狂騒曲(番外編)青葉と恭平のオフィスラブ㉜ 澄んだ色の貴方

「 ねえレシート見た?ランチが150円値上がりしてるわよ、ひどーい!もっと安いお店開拓しましょうよ。来月までに良さげなイタリアン二人で探そ 」
「 値上げも仕方ないよ。10月に入って仕入れ価格も軒並み上がってるからうちもお客に価格改定の案内をガンガン流してるじゃない 」
「 ふん、でもさ、実際私たちの会社みたいな商社はこういう時差益で結構儲けてるじゃない… それなのに私たちのお給料は全然上がらないのよ 」
「 大卒に比べてそんな難しい仕事はしてないもん。座る椅子があるだけいいと思わなきゃ 」
「 あーあ、最近合コンも振るわないし… ねえ、先輩が入ってる結婚相談所が来週イベントするんだって、行ってみない?」
「 いいよ。私はまだ結婚する気はないの 」
「 そんな余裕みせるのも今のうちよ。すぐにもっと若い子たちが押し寄せて漁場を荒らしに来るんだから 」

 それはちょっと前までお前がやってた事だろーって突っ込みたいけど、割愛。お給料日恒例の丸の内ランチ巡りを終えて歩くオフィス街はもうすっかり秋の雰囲気だ。この間まで暑いとか何とか言ってたのにな。ハロウィンであふれるショーケースを見るのも今年で2回目。時間が経つのは本当に早い。
「 ねえ… ここだけの話だけどさあ、秘書課の如月課長補佐、鬼専務とどうも怪しい関係みたいよ 」
久美子が声を潜めて囁く。私はわざとスマホをチェックしながら興味ない素振りで生返事をする。
「 ふうん、いいんじゃないの。二人とも独身だし、毎日一緒にいたら情も移るでしょ 」
「 親子ほど歳が離れてるのよ。なんかイヤらしくない? きっと無理やり専務が食べちゃったのよ。ホント、職権乱用よね、でもあんなハンサムが毎日仕えてくれれば、絶対天国だわー」

 表情を久美子に気づかれないよう私は下を向いてスマホに見入る。あの夏の夕暮れ、私に冷たい言葉で別れを告げた彼の声が今でも聞こえてくる。
どんなに時間が経っても、あの声と顔は忘れないだろう。だから私は恭平さんの幸せを未だに祝うことが出来ない。
 
 私に触れた手で専務を抱いているなら… 愛し合っていた日々を全て忘れた方がいい。

 いつになったら、私はこの辛さから立ち直る事が出来るのだろう。

 陽気に話しかける久美子に笑う準備をすると、スマホを閉じて空を見た。抜けるような青い秋晴れ。横断歩道を渡る風も透き通って軽い。これ以上はない素敵な昼下がりだけど、心の中はずっと湿った雨が降り続けている。



 3時ごろ、久美子と私は2階のミーティングルームに呼び出された。「いけばわかる」と課長にせかされて飛んでいくと広い部屋には私たちと同じ制服組の女子社員が十数人。どの人も面識がない他の部署から集められた様子で一様にいぶかし気な雰囲気。奥で40代くらいの男性社員が緊張した顔でメンバーをチェックしている。何だろう… 
「 これで全員揃ったようです。私は広報宣伝部課長の坂下です。急に来てもらったのは皆さんに是非お願いがあってのことです」
 高まる緊張感。一体何をやらされるの?
 課長が手元のパソコンを操作すると正面の電子ボードに派手なポスターが現れた。「 International Trade Fair in Tokyo  」とキャッチコピーが真ん中を占める。ははーん。うちの会社が年に1回大口の顧客を呼んでやる内覧会ね。こんなの、私たちには関係ないのに?
「 これは、毎年我が社のイメージアップと最新商品を売り込む一大イベントですが、今年は海外の企業からも多数来場される見込みで秘書課は通訳として全員が業務を担うことになりました。つきましては、皆さんに一般顧客の接待をお願いしたいと思います」
 つまり、日本企業の社長様たちのお話相手ということか… これ確か、この週末じゃない?随分急だけど出展企業や展示商品を教えてもらわないと困るわ。

「 企画内容の詳細説明は秘書課の如月課長補佐にお願いしています。この後すぐに来られますので今日は皆さんこちらで研修して勤務終了に… 」
「 待って下さい 」
私は大きな声で手を上げた。視線が一斉に集まる。
「 販売促進1課の北岡です。今回の人選はどなたが担当されたんですか 」
「 各課の課長から複数名の推薦をいただき、それを秘書課と広報宣伝課で審査して選出しました 」

 室内に当惑と驚きのざわめきが流れる。私は唇を噛んだ。私を選んだのはきっと恭平さんだ。あんなひどい別れをしたくせに、こんな所に引っ張り出して一体何がしたいの?
猛烈な怒りが突き上げてくる。いいわ。そこまで私を試したいなら、こちらだって考えがある。
「 レクチャーは20分後です。それまでにはこの部屋に戻って下さい 」
対照的に久美子はやたら興奮して完全に舞い上がっている。
「 すごい… こんなイベントに選ばれるなんて超ラッキーよ!みんな一流企業のやりて担当者ばっかりじゃない!青葉どうする?帰りにコスメ買い出ししないと… 」
「 私、戻ってパソコンとメモ取ってくる 」
「え、何するの?」
「 参加企業と商品を全部調べて準備するのよ 」
 久美子を置いて私は部屋を飛び出す。もう個人的な思いは関係ない。仕事で、彼に負けるのだけは絶対に嫌だ。うろたえて俯く私を見て笑うつもりならお生憎様、秘書課の美女に負けない、いやそれ以上の仕事をしてやるわ。

 エレベーターの止まる音がした。持っていくのはタブレット、メモ帳、ペンとマーカー、付箋もあると便利。それから…

 軽いチャイムが鳴って扉が開いた。そこから流れてくる香に、一瞬で私の思考回路はフリーズする。もうそこにいるのが誰か、わかってしまったから…… 

 書類の束を抱えた如月課長補佐が、私の前に立っている。顔を上げた私と目が合った。どちらも動かない。エレベーターは静かに扉を閉めた。

 手を離せよ、気持ち悪い 

 彼の最後の言葉が頭の中で渦巻く。怖い。怖いけど、目を逸らすことが出来ない。私の目は彼の深い瞳に吸い付けられる。

 恭平さんは、黙って私を見ている。悪意も驚きもない澄んだ色が、昂ぶっていた怒りを瞬く間にさらっていくのが、とても切ない。







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