サドル狂騒曲(番外編)青葉と恭平のオフィスラブ㉝  秋の夕餉

 「 丁度良かった。資料を運ぶのを手伝ってくれないか 」
 抑揚のない穏やかだけど無機質な声に私は従うより他はなく、恭平さんの抱えている冊子を半分取って会議室の方へ歩き出した。たかが20メートルくらいの距離が、すごく遠く感じる。トワレは変わっていないけど、スーツは濃紺のスリーピースで私が知らないデザインだ。専務の好み?髪は多分1度切っている。もう少し強くウェーブ当てた方が似合うのに。私がネットで注文してた野菜ジュースはもうなくなってるはずだけど、サプリだけじゃビタミン不足だって言ったの覚えてるかしら…
「 …… 聞いてるの? 」
「 え、ごめんなさい。何でしょう 」
「 もういいよ。別の子に聞く 」
 恭平さんはそれきり話さなくなった。気まずくて、わざと歩く速さを遅くしたけどなぜか恭平さんとの距離は縮まらない。多分、私に合わせて歩いてるんだ。昔からそうだった。でもそれは今では嫌がらせにしか思えない。
 会議室のドアが見える。私は立ち止まった。
「 あなたの私物がまだうちにあって困ってます 」
 勇気を出して切り出すと、恭平さんは足を止めた。
 捨てていいよ。 好きに処分すれば? 返事はわかっている。でもこれくらい言っても構わないでしょ?あなたは私の荷物をお友達に預けて逃げたのだから。
「 …… そのうち取りに行くからそのままにしてくれる? 」
ハッとして彼を見た。恭平さんは早足で会議室に入っていく。拍子抜けしてしばらく頭が真っ白で動けない。

 取りに行くって、どういうこと?私のアパートに来て、どんな顔でシャツやカップを受け取るの?本当に信じられない。私がどれだけ心を痛めて今でも立ち直れていないことがわかっていないんだ。付き合ってた頃はこんな人じゃなかったのに。優しくて思いやりがあって、いつも笑って私をみていてくれた… 
「 北岡さん、残りの資料早く持ってきて!」
 広報課長の声がする。胸が苦しい。私一人がこんなに苦しむ理由がわからない。資料を叩きつけて出ていきたい気持ちを押さえて、私は会議室の慌ただしさに身を忍ばせた。


 
 時計は午後8時を過ぎたけど、私は資料の束に囲まれてパソコンを叩きまくっている。出展企業の最新情報と株価、今期の新製品の特長と直近5か年の売り上げと商品特性をデータでまとめて打ち込んだ後、比較対象してどこがイチ押しかランクを付ける。後はお客のニーズに合った案内ができるよう参加企業の事業内容を把握して… ヤバっ 時間がない。とりあえずお客の情報整理は明日にして… スマホに着信の合図。雄太さんだ。
「 なんだ、まだ会社にいるのかあ? 総合職の昇進試験でも受けるつもりかよ 」
「 茶化さないで下さい。本当に忙しいの 」
「 腹減ったろ。一緒に飯食いにいこうぜ。ホテルディナーの株主優待券が山ほど余ってるんだ 」
「 食事なんて食べてる場合じゃ… 」
途端にお腹が鳴った。今日は怒ったり働いたりで体力使ったなあ…… まあ、たまには彼氏のお財布に甘えて美味しいディナーをいただいちゃおう。
「 東京駅のエキナカにおいしそうなフレンチビストロがあります 」
「 じゃあそこに行こう。それからさあ、今日泊まりに行っていい?」
「 まだ水曜日ですよ… 明日も仕事があるのに 」
 小声で話しながら私はあたふたと机の上を片付ける。一応断るけど、多分お泊りコース決定だ。付き合って2か月経つけど、昼はかっこいい海外事業部エリートサラリーマンなのに… 

 夜は、ただのヤリたがりのおサルだもんなあ… 

 キスマーク、首筋につけないように注意しないと。私は電話を切るとカバンを抱えて更衣室へダッシュした。



 同じ時刻、恭平は緋呂子の部屋の前で呼び鈴を鳴らした。
「 帰ったよ。遅れてごめん 」
 ドアが開き、笑顔の緋呂子が顔を出した。化粧を落とした顔とエプロンをつけた姿に、職場での猛々しい面影はない。
「 おかえりなさい。着替えてお風呂に入って 」
恭平は玄関脇の部屋に入りスーツを脱いで部屋着に着替えた。ベッドの上に洗い物が畳んでおいてあるし、ワイシャツはきちんとアイロンがかかってハンガーに吊るしてある。全くあんなに忙しい中でどうやって時間を捻出するんだろう。恭平は灰皿をつかんで煙草に火をつけた。

 横浜で青葉と決別した日、マンションに着いて車を降りようとした緋呂子を抱きしめた理由を恭平は今でも説明できない。遠慮がちに恭平を気遣う緋呂子の顔に母の面影が重なったせいかもしれなかった。
「 すいません。許して下さい 」
動揺して謝る恭平の頭を緋呂子は優しく撫でて微笑んだ。
「 いいの。心が寒い時に羽織りたいコートが近くにあったと思えばいいのよ 」
傾きかけた夕陽が一筋二人の間にオレンジ色の矢を放った。恭平がサンルーフをオープンにしてエンジンを切ると、天井から濃い夏の空気が舞い降りる。

 熱気に押されるように、気づいたら唇を重ねていた。
 驚くほど、緋呂子の反応は新鮮で初々しかった。


 恭平がキッチンへ行くと、焼き魚と煮物、きんぴらと黒鯛のカルパッチョが並んでいる。緋呂子が手際よく洗い物をする背中に、恭平は後ろからそっと抱きついた。薄く残るコロンに昼間の顔が浮かぶ。首筋にキスしながら腰を擦り付けると、緋呂子は軽く喘いで首を振った。
「 ダメ、魚が冷めるわ 」
「 冷めても美味しいよ 」
「 お風呂に入らないと 」
「 一緒に入ろう 」
「 そんなの… 」
恭平は強引に唇を塞ぐとそのまま緋呂子を抱き上げ、キッチンを出ていく。

 テーブルの上に整然と並んだ夕餉から愛情のこもった湯気と匂いが立ち上る。恭平がずっと求めていた母との静かな団欒がそこにあった。だがバスルームからもれる笑い声は、弾ける甘い時間を楽しむ恋人同士の睦言以外にない。

 これでいい。これでいいんだ。

 恭平は何度も何度も心でつぶやく。思い出も何もかも捨てて緋呂子のそばで新しい時を紡ぐ。母の温もりと恋人らしい恥じらいの間で心地よく揺れる恭平の体に、それでも必ず刺すような痛みが走る。痛みなど一生でも耐えて見せよう。でもあの柔らかい髪と細い背中と俺を見て笑う顔がどうしても頭から離れない。今日エレベーターのドアが開いた時、俺は神を呪い、神に感謝した。至福と絶望、それが俺に付けられた枷。

 流れろ、全部流れて消えてしまえ。

 滝のようなシャワーを浴びて、恭平は緋呂子の躰を力の限り抱きしめた。



 続

 





 


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