言葉は人を幸せにするかもしれない

言葉の力に気付いたのは、中学生の頃でした。

僕の学年は「語り合う学校」を目指し、積極的に言葉を伝え合う風土をつくろうとした世代です。声が揃わない合唱、淀んだ人間関係、行き詰まった学級活動。そんな学校生活のなかで、それぞれが言葉で伝え合うことを大切にした世代でした。

中学生は大人の世界へ半歩ほど足を踏み入れる年ごろです。
背伸びをして何かを語ることやキレイな言葉を口にすることに、抵抗感を抱く年齢です。声高に語る友人の言葉を素直に受け止めることができなかったり、心のどこかで見下したりすることもあると思います。

それでも、僕の学年は語ることに幸せを見出そうとしました。

勇気を出して言葉を語りかける友人がたくさんいました。そして、その言葉を受け止めようとする友人がもっとたくさんいました。
「あの言葉を聞いて私も変わろうと思った」「あの時の語りに勇気を貰った」。そんな声をかけあうことができる友人に囲まれ、僕は臆せず言葉を伝えることができました。

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(中学時代は「日々のあゆみ」という日記も書きました)

僕には中学2・3年生で同じクラスだった一人の同級生がいます。
時に道を逸れ、クラスに迷惑をかけてしまうことがある子でした。

しかし、僕は彼がとても優しい心の持ち主であることを知っていました。
決して人に悪口は言わないこと。決して人を傷つけないこと。

その人懐っこい人柄が好きでした。だからこそ、見捨てたくありませんでした。
僕はなかなか届かない言葉を、彼に伝え続けました。中学生の僕は青さがあり、上手な関わり方は出来ていませんでした。我ながらしつこかったな…と、今では反省しています。

そうして粘り強く関わり続けていると、彼から思いもよらぬ言葉をかけられました。ある日の帰りの会、彼が真剣な表情で「お前の言葉は聞こうと思う」と言ったのです。僕は救われた気持ちになりました。暖炉のような温もりが体内に込み上げました。

その後、彼は笑顔で卒業しました。今は国のために懸命に働いています。成人式にはスーツではなく、制服姿で来てくれました。

彼はあの時の言葉をきっと覚えていないと思います。しかし、僕が彼に言葉をかけ続け、彼が言葉をかけてくれたからこそ、今の自分があります。

彼との関わり、そして、語り合った中学時代を経験し、言葉は人を幸せにするかもしれないと気が付きました。

幸せは姑息な手に頼ることでは実感し得ません。王道を貫こうとする先に幸せはあります。陰で人を貶めたり、権力をふりかざしたりするのではなく、言葉を語り合うという王道をゆくからこそ、ささやかな幸せを感じることができるのだと思います。言葉は王道です。僕たちは言葉を紡ぎ合うことで、ささやかな幸せを共有することができます。

令和へ突入した現代は、扱う言葉が短くなりつつあります。
140字以内のTwitterの投稿、急速に普及したLINEでのやり取り、タグだけが添えられたInstagram。言葉が短くなるということは、そこから削ぎ落される情報が増えることを意味します。「誹謗中傷」という現象が後を絶たない背景には、削ぎ落されてゆく言葉への怖さや想像力が欠如している現状があると思います。

僕が言葉に携わる者として大切にしたいことは、その人の想いをなるべく削ぎ落さないことです。もちろん、限られた字数の中で書くことは、何かを削がなければならないということなので、やむを得ないことはあります。しかし、たとえ何かが削がれたとしても、そこに登場する人を立体的に想像できる言葉を紡ぐことはできます。

言葉は人を幸せにするかもしれません。言葉を重ねることで、ささやかな幸せを灯すことができると信じています。


至らぬ点は遠慮なくご教示して頂けると幸いです。
よろしくお願いします。

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