樹海

                      辺り一面は暗い樹木に囲われた。
時々廃車が見えるばかり、獣道はどこを走っても同じ景色が続いていた。
「どうして僕は」
ここに来たのだろうか。

壊れた山中の公衆電話の受話器を取ってみる。ひんやりとしたアスファルトは心地がよかった。
「もしもし。」
自嘲の笑みを浮かべて。
カビの匂い、いつかのアパートを思い出した。横には放置された自転車に洒落たサンダルの片っ方。
「待ちぼうけだね。」
僕も誰かを待っているよ。
青い森の中道には車も人も来やしない。だから空気が済んでいる。
アスファルトのひびの間、雨坪蟻の行列。死んだ蝉が終夏を思わせる。
その時だった。
「もしもし。」
呼び出し音も無しに電話が喋りだした。
木々が揺れている。思わず受話器を落としそうになる。
「...誰?」
遠くから鼻歌が聞こえてきた。
「君も来る?」
「え?」
「おいでよ。綺麗だからさ。君はここにぴったりだ。」
男の子の声。
受話器は回線が切れていた。
「君はどこにいるの?」
「そこの坂を登って神社の裏を回ってごらん。」
ツーツーツー。
雑な切り方が聞こえたあと受話器はいきなり静かになって辺りはまた森の内緒話だけになった。
奥に見えるのは暗い小道、街灯。
塗装の剥げた鳥居。
受話器を本体に返して僕はその小道を進んだ。

神社の裏を回ると野道ができていて、その先には木々はなく、野花が咲いていた。ひりつく三月の風が崖っぷちへ吹き抜けていった。
奥には小高い丘、それから...
僕は狭い野道を走った。すぐ横は崖で下の方には丸くなった光の玉の数々が揺れている。
「ねぇ、君。」
そこには一隻の小舟があった。
その船首につなぎとベレー帽を被った小さな男の子が座っていて、釣りざおを崖の方に垂らしていた。
「綺麗だと思わない?」
男の子はこちらを向かずにそう言った。
「君は何を?」
「魚を釣ってるんだ。だけどなぁ、まだ一匹も釣れやしないんだ。」
横に置かれたバケツは空で、クモの巣が張っていた。
こんなに広い海だから一匹ぐらい魚が居たっておかしくないと思うんだけど。
目の前は深緑の森。
「ここは樹海だよ。」
「うん。」
男の子は、それが?という顔をして釣りざおをより遠くへ投げた。しかしその先は空を切ってこちらへ帰ってくる。
「海じゃないんだよ。」
「......」
海さ、そう聞こえた気がした。
「ねぇ、貴方はなんでここに来たの?」
西日が当たり、宝石のように雨の粒が輝いた。ダイヤモンドにアメジスト、サファイアにトパーズ。
「思い出せないよ。」
僕の手には太いロープと一枚の手紙が握られていた。それから素足で靴はどこかに置いてきてしまったらしい。
「なんだか、何もかもよく思い出せないんだ。」
全てが眩しすぎてもう何も見えない。
目があるだけ邪魔だ。
「ねぇ、魚は釣れないかな。」
そういう男の子の目は遥かな森の先を眺めていた。

太陽が消えてしまいそうなくらい燃え上がった時。

「あれ。」
青く霞んでいた森が、急に日光に当てられて明るく赤く色づいた気がした。
潮の匂い。夕凪の息。思い出に大鯨。
これ、これは。
「海だ。」
口から溢れたその言葉は緑色の水の上に落ちて音を鳴らした。
「そうさ。」
「うん。」
僕は言った。
「ねぇ、僕もその船に乗っていいかな。」
遠くで日が音もたてずに沈んでいく。
「うん。いいよ。魚を釣ろう。どっちが多く釣れるか競争だ。」
男の子ははにかんだ。
僕はその横に座って、深く透き通る緑の深海に釣糸を投げ入れた。




                            

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