「裸足」
彩られた珊瑚礁みたく読書灯の眩い部屋の中で自分の手の輪郭を透かしている。真っ黒なカーテンが深海みたいだ。
此処は誰も来ない。僕の場所。
外には大きな邸園があるけれど、大人達みたいに御茶を不味くするような話はしないで、僕は此処で天井の魚に笑いかける。
大きな天幕に覆われた僕の地球に、大きな鋏の絵画が一つ。
机にも僕の描いた鋏が一つ。
此処は終わらない夜更けの世界だ。鋏は必要がないからこの絵は後で燃やそう。
ある晩に一人、女の子がやってきた。
彼女は、裸足のままで僕の部屋の床に落ちると、微笑んだ。
「君は珊瑚礁の住人なんだね」
彼女は、驚くべき事にその事を口にした。
「君には魚が見えるの。」
「見えるとも、
ねぇ、面白い顔をするのね」
道に捨てられたライターの歴史を誰も気にしないみたいに、
捨てた原稿用紙が焼却炉に向かう事を忘れているように、
大人は僕の家族に気づいていなかった。
彼等は魚達をあたかたもなく割いて、金魚鉢へ捨てた。
壊れたオルゴールみたいな口笛を彼女は、一つ吹いた。それから
「此処は温かいのね。」
と呟いた。
彼女は、ベッドの上の僕を神妙に眺めた後に、僕の捨てた原稿用紙やら飾っている鋏や瓶の油絵を眺めた。汚れたパレットの匂いをかいで、裸足のままで踊った。
「愛の所在」
「あっ、」
「生への証明」
「生への対価」
「ねぇ、それは」
「捨てたものの居場所」
「神様の殺し方」
「ねぇ、」
「快楽の全て」
「夜明けは隣の貴方へ押し付けて」
「ねぇってば!」
「思い出の捨て方」
僕は彼女からその紙切れを手荒く掴み取った。
僕の手を暫く見つめた彼女は、僕の手を握った。
「泡沫の体」
「そうだよ、僕の身体はすぐに無くなる。」
「嫌だよ、私は貴方の暖かさを失いたくないもの。」
「僕だって体も心も無くすのは嫌だよ。でも定めだから。」
「どうして?」
「生まれてから死ぬ事は決まってる。電池が切れるみたいに、
お家がいつの日か朽木になる様に、砂漠に残した足跡が消えるみたいに、僕らは何も保てないものなのさ。」
彼女の目は澄んだ碧色だった。
「寂しい、淋しい、さびしいよ。」
彼女はその大きな目から白い肌へ大粒の石英を流した。
彼女は身を寄せた。
あたたかった。
「大丈夫、まだ暫くはこうして暖かさを分け合えるもの」
「ねぇ、」
真っ暗な深海は体に暖かさを与えようとはしない。でもずっとこの泥に裸足をつけて、海底にいれば此処はもっとずっと元から温かいんだって気づく。
その時僕の口元は溶けるように一度温かみを持った。
彼女は、僕に口付けをした。
「私は私の行方を探しに行くわ。」
ふと淡い青い目が揺らいで
白いワンピースが揺れた。
手を伸ばしても届かないものはある。遠くへ消える気泡みたいに。別れというものはどうしてこうもうつくしい。
儚いからか。
「駄目だ!」
「またね」
彼女は鋏の絵画に触れた。
さぁ、夜明けが来るよ。
物語を捨てられるほど僕は強い人間じゃない。嘘ついてまで創った物語はずっと忘れられない。
目が覚めるとカーテンに一つ大穴が空いていて、そこから身を溶かすような日差しがなだれ込む。
机の上には鋏の絵画のかわりに、血だらけの鋏が一つ置かれていた。