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池袋

空だった。最初に映し出された空の映像はやたら長く続いた。これ、いつまで続くんだろう、という思いが一度訪れて、しばらくして去って行き、また訪れる。というのを何度か繰り返した。そんな風に時間が経過して行く。携帯や腕時計などは持っていなかったので、具体的にどれほどの時間が経過したのかは分からなかったが、ただひたすら空を映した映像が暗がりに煌々と続けられた。空の表情は様々に変化した。晴れ渡った青空や燃えるような夕焼け空、薄曇りの曇天や滝のような大雨。綺麗な映像であり、よく撮れているとは思ったが、その映像の間延びした尺感が退屈であることに変わりはなかった。そのうちに声が聞こえて来た。退屈ともおさらばかと思った。この声が台詞となってなんらか物語が紡がれていくのだと。それは微かな話し声で、男と女が会話をしているようだった。男は、初めて会った日のことを覚えてる? と、女に尋ねた。女は、覚えてないけど。と、平坦な調子で覚えていなくて当然といった感じで応えた。男は、え? と、それはそれで意外かのような声を上げた。女は、まぁそんなもんなんじゃない? 貴方と私って。と、一貫して冷めた様子だった。男は、やだなぁ。と、かなり落ち込んだ。女は声色を変えて、あ! あれピカチュウじゃない? と、げんなりしている男に明るく声をかけた。男は、知らんて、別に好きちゃうし。と、拗ねた声を出した。女はそんな男の様子を意に介すこともなく、ピカチュウっていったらもう懐かしい部類だわ、私ん中では。と、報告した。男は、マジで? と、それはそれで驚いたという感じだった。女は、だって、女子はそんなポケモンずっとやったりしないもん。と、言った。男は、俺かてポケモンめっちゃやってきたて訳でもないけど、ピカチュウはまだピカチュウやけどな。と、持論を展開した。女は、ミッキーはめっちゃミッキー。と、だけ言った。男は、うっすら笑って何も言わなかった。いつの間にか、映像はコンビニの駐車場を映していた。人は一人も映っていなかったが、男と女がそこで会話しているということを暗に示しているのかもしれないと思った。そう思うと同時に、男と女がそこで会話している映像でいいのに、普通に。とも思った。男と女はその後も会話を続けたが、その辺からはマイクに風のぶつかる音がうるさすぎて内容は一つも聞き取れなかった。映像は砂浜から海を映していた。薄曇りの低い暗雲が立ち込める悪天候の日の海だった。海面はどす黒く、それでも波のさざめきは変わらない海のそれだった。ベタつく生ぬるい潮風が今にも吹き付けてくるようだった。足の裏とサンダルの隙間でジリジリと弄ばれる砂粒の感触を感じるかのようだった。男と女が再び話し始めた。男は、まずいつまで付き合うか決めようや。と、話を持ちかけた。女は、そういうのじゃないって。と、素っ気なくあしらった。男は、いやいや、マジでマジで。と、焦った素振りを見せた。女は、いや、うるさいんだけど。と、冗談めかして言った。男は、いやでもさ、いつまでとかなくてもいいからさ、せめてしばらく一緒に居ない? と、けしかけた。女は、割引きになってないし。と、しっとりした口調で返した。男は、ちょっと海見よ? と、提案した。女は黙っていた。女はしばらくの沈黙の後、バイク速かった。と、言った。男は、あれ鮫じゃない? と、言った。女は、鯨じゃない? と、言った。確かに映像に映る海の、向こうの方に黒いひれのようなものが見えた。段々と浜辺に近付いてくるようだった。男は、こっち来てない? と、言った。女は、なんだろうね。と、言った。黒いひれはスイスイと波間を縫って進んだ。男は、サーファーかな? と、言った。女は、人かな。と、言った。黒いひれがすぐそこまで来た時、男と女の声は聞こえなくなり、黒いひれが波打ち際の少し先でじっとしているだけの映像が続いた。少しして映像は黒いひれに向かってゆっくりとズームし始めた。白波の寄せては返す波打ち際に潜む何者かの黒いひれの艶やかな光沢までもが見えるようになった時、どこか遠くの席から手を叩く音が聞こえてきた。そして、続くように何人かの拍手が起こり、次第に劇場は盛大な拍手の渦に包まれた。一人また一人と立ち上がって拍手をし始め、どうしようもなくなり私も席を立ち上がった。前の席の人が座席の上に立ち上がり、頭の上で拍手をしている。横の人もそれに習って座席の上に立ち始めた。指笛や歓声が絶え間なく鳴り響いた。劇場の照明が点いて拍手が一層大きくなった。スクリーン前の壇上に誰かが上がって来たようで、ハンディマイクのスイッチを入れるプツっというノイズがスピーカーから鳴った。その間も周りの観客は座席の上に立って拍手し続け、登壇した何者かの姿はよく見えなかった。ようやくスタンディングオベーションが落ち着いてきて一人また一人と着席し、登壇者のトークを聞く体勢に変化して行った。初めて目視した登壇者は髭を蓄えた眼鏡の中年男性だった。ベージュのジャケットをラフに着こなした洒落た雰囲気を纏っている。男は、えー、こうして満員御礼を賜り、そして、盛大な拍手で迎えていただけたことを光栄に思います。と、落ち着いた口調で挨拶を述べた。男は、この度、私の監督しました映画、うつろい、の完成披露試写会にお越しいただきありがとうございます。と、続けた。周囲からは再び割れんばかりの拍手が送られた。男は照れくさそうにはにかみながら頭を掻き軽く会釈をした。スクリーン横の扉が開き、いかにも司会者といった風体の横分けの男が小走りで壇上に上がると、こなれた様子でトークショーを仕切り始めた。そして、司会者の盛大な煽り文句と共にスペシャルゲストである、劇中の男と女の声を演じた人気俳優と新人女優も壇上に登場した。その後、作品に込めた思いや制作秘話などをたっぷりと語ってトークショーはお開きとなり、拍手喝采のなか監督と役者が舞台を去り、そのうち前列から順番に退場するよう劇場の係員が指示を出し始めた。劇場の外は晴れ渡った夏の夜空が広がっていた。蒸し暑い夏の夜風が興奮冷めやらぬといった感じの観客達の背中を押してダラダラと駅まで歩かせた。自販機の横のゴミ箱からペットボトルが溢れ出して道端に散乱していた。見ると、コンビニのアイスコーヒーのプラカップをペットボトルを捨てる丸い穴にすっぽりとはめた奴が居たせいのようだった。熱いシャワーを浴びるべく、家路を急いだ。

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