金色の光を放つ無数の糸が限りなく広がる宇宙の隅々までもを埋め尽くすように放散し、夕日に照らされた驟雨が寄せては返す波間に落ちてそれらを煌めかせるように宇宙を覆う暗黒の全てを一斉に浄化した。なにごとにものめり込むタイプの兄が頻繁に外出するようになってから半月ほど経過した頃のことだ。 兄は家では何も話さないがなにかその時のめり込んでいるものごとがあるとその余波がこちら側にも影響する程度までのめり込むので、そうした段になると家族はそれとなくのめり込み過ぎることへの
エレベーターに乗り込む順番について考えると、まず最初に乗り込んだ者はカゴの最奥まで入り込むことになるので自然と降りる時は一番最後に降りることになる。そして最後に乗り込んだ者は自ずと扉付近に立つことになり降りるのは一番最初になる。もちろん、乗り降り口が対面に二箇所設置された一方通行型のエレベーターに乗った場合や扉横の開閉ボタン付近に居る人が扉の開閉のために最後まで降りないでいるケースなどの例外は存在すると考えられるかもしれない。そうであったとして、それがなんだというのか
腰骨の辺りを押して変に柔らかすぎたり硬すぎたりしないかを確かめる。金属製のレーンの上をゆっくりと、向こうからきてあっちへ流れていく、その途中のこのエリアではそうして腰骨の辺りを確かめることだけが数少ないやらなければならないこととしてあり、それ以外にはやらなければならないことも無く、やってはいけないことも無かった。私の前には私と同じくらいの年齢と思われる小太りの女が立っていて、私が腰骨を確かめる前にその女が同じ腰骨を確かめている。もっと言えばその女の前にも何人か居るように見える
空だった。最初に映し出された空の映像はやたら長く続いた。これ、いつまで続くんだろう、という思いが一度訪れて、しばらくして去って行き、また訪れる。というのを何度か繰り返した。そんな風に時間が経過して行く。携帯や腕時計などは持っていなかったので、具体的にどれほどの時間が経過したのかは分からなかったが、ただひたすら空を映した映像が暗がりに煌々と続けられた。空の表情は様々に変化した。晴れ渡った青空や燃えるような夕焼け空、薄曇りの曇天や滝のような大雨。綺麗な映像であり、よく撮れていると
泥の研究と書かれた、表札とも看板ともつかない木の板をぶら下げた門柱の脇を抜けて背の高い雑草の生い茂る庭のおぼつかない石畳をたどると、草をかき分けかき分けして随分歩いた頃、やっと勝手口らしき古びれたドアの前に着いた。アルミか何かでできたドアノブにびっしりとまだら模様の錆が広がっているのを見て、素手で触るのが躊躇われた。 玄関のタイルをつま先で叩くようにして靴底の溝に詰まった土塊を落とすと雑草の潰れた青臭い臭いが立った。空気の停滞する廊下にぶら下がった裸の電球は壁際のスイッチを
いくらでも嘘をつくことはできたのに、青臭い苦味の後悔が舌の付け根を締め付けるようだった。乾燥した砂埃を舞い上がらせる無数のランニングシューズの不規則な雑踏の中にいた。よーいドンと張り切った掛け声と乾いた火薬の破裂音を聞いて初めてこの人混みの正体を理解した。うねりとざわめき、文字通り波のように流れ行く人波に弄ばれ足がもつれておぼつかない。見るからに意地汚い中年の老眼鏡に歪んだこめかみの皺を見て、私は頷いて何かを了承していた。市営の広いグラウンドをスタート地点とし、そのまま河川敷
「ブルーベリージャムが床にこぼれていた」 「それが君の怖い話?」 「はい、そうです」 「それは、いつ、どこで見た光景?」 「何日か前、もしくはずっと昔の子供の頃かもしれません。何度も繰り返し思い出すので、この記憶がいつからあるものなのか、今となっては不確かです。……場所は、居間。実家の居間です」 「君がそれを恐怖した理由は?」 「夜だったんです。なかなか寝付けない暑苦しい夜でした。二階の自室から階段を降りて居間に出て、台所でコップに水を汲んで飲んだ。電気は点けていなかった。た
人妻は汗ばんだ額や首筋に布地を押し当てて肌色の汗を染み込ませた。普段よりいくらか荒い呼吸は熱く湿っている。布地は視界の果てまで限りなく続いていた。シルクか木綿か学の無い人妻には分からなかったが、それは化学繊維だった。廊下はどこまでも限りなく続いていた。人妻の夫である私はそれを見ていた。 「仕方ないじゃない。汗だくで先生のところへ行くなんてできないわよ」 「ああ、分かってるよ。それに、先生だってそのことを分かってくれるさ。先を急ごう」 私たちは再び歩き始め
ここに「今すぐ自転車に乗りたい男」というタイトルの小説が存在する。それは主に日本語を用いた文章によって構成された数十頁ほどの短編小説だった。著者が男性であるのは確からしいのだが、それがいい歳して窓際と言って差し支えないような繁忙期などとはおよそ縁遠い閑散としたオフィスの片隅で勤務時間中にも関わらず私的行為に耽る冴えない中年男性によるものなのか、そうでないのかは分からない。ただそれが「今すぐ自転車に乗りたい男」という文言をタイトルに掲げる概ね数十頁ほどの短編小説であるということ
ここにとある一人の男があるとしよう。その男はごく普通の生活を送っているとしよう。男は道端で小銭を拾う。それは百円玉であったとしよう。その時男の頭上には春先のよく晴れた空に太陽が高く昇っているとしよう。男が百円玉を拾い上げようと腰を落とした時、太陽はゆっくりとその巨体を滑らせて地平の彼方へと沈んでいく。街は途端に夜のそれへと表情を変え、困惑するように家々に明かりが灯る。急激な温度変化のせいなのか、冷たい風が男の首元をかすめて通り過ぎる。男は百円玉の端を中指と親指で挟むと、親指の
目出し帽を被った男たち。男たちに目出し帽以外の着衣は無い。露出した陰茎を見てしまった。男たちは横並びに整列し皆一様にそれを奮起させている。つまり勃起している。右端の陰毛が揺れて風が吹き左端の陰毛を揺らした。私はそれを、可視化された風の通行を目で追っていた。男たちの目線は私の身体に集約されている。まじまじと見つめている。少しずつ私の着る衣服が透き通っていくからである。今やスーパーのポリ袋ほど透明度となり次第に水に濡れたトイレットペーパーのように本来の形状を失い剥がれ落ちて行くよ
春の風が無神経に吹き付けて、傷心の俺を嘲笑った。都会のアスファルトは今日も硬い凹凸を見せびらかしてくる。わざとらしい街路樹もいやらしい高層ビル群も、何もかもが鬱陶しい。俺の心は見て分かるほどにささくれだっている。どうしてこんなことになったのか。俺は現在から過去を振り返ることにした。 俺が最初に思い出したのは、現在よりも数秒前の出来事だった。春の風が無神経に吹き付けて、傷心の俺を嘲笑った。突風に目線を下げると都会のアスファルトが硬い凹凸を見せびらかしてくる。整然と立
見栄えの悪いショートケーキがテーブルの上に並んでいる。同僚の妻は照れくさそうな顔で見た目は不格好ですけど味は美味しいですよ、よければ是非と言った。私は酷く欲情し、紅茶の入った繊細そうなティーカップをソーサーに置く手がやたらと震え、カチャカチャと音がなった。私はそれをとても美味しそうに頬張り、同僚の妻にとても美味しいですよと微笑みかけた。どうしてそうなったのかは全く分からなかったが、同僚は今や完全に椅子となって私に上に座られている。そして同僚の妻が座っている椅子はどう見ても私の
友人に彼女ができた。 僕が写真を見せて欲しいと頼むと、彼はにこやかにスマホを叩き、ほい、とこちらに画面を向けた。それは髪を乱し白目をむいて眠っている女性の寝顔をこれでもかと低い角度で下から撮ったものだった。うわ、こいつ、と思った。友人はウソウソと言い、何度かスワイプしてちゃんとしたツーショットの写真を見せた。最近のスマホは高い。夜のシンデレラ城をバックに、友人の彼女はしっかり可愛く写っている。平日、昼過ぎの中央線は人がまばらで、冬晴れの陽気と適度な振動が心地よかっ
秋晴れはすぐに暮れてしまった。本来ならまだ働いている時間にも関わらずほとんど夜の街を歩いてるのと変わらない気分だった。 午前中だけ働いたので代謝が上がっている。冷たい風はそれほど苦痛にはならない。チャリを転がしてモグラのように夜を掻いて行く。ちんたらとした歩みが好きだ。 職場の後輩がYouTubeを始めると言っていた。APEXの実況で配信者として成り上がるつもりらしい。本人は「あくまでも趣味なんで」などと言うが、その目には労働への疲弊と嫌悪、そして名声への
かなり長い廊下がある。そこにいる観客の一人一人はみな受付で金を払って入場した者たちである。しかしそれぞれが支払った入場料はまちまちである。なぜならここは支払った入場料に応じて廊下を奥まで進むことができる決まりになっているからである。多額の入場料を支払えばより奥まで廊下を進むことができるのだがエリッツ・フィクセンドリはその時たまたま財布の小銭入れに入っていた数枚の硬貨のみを入場料として支払っていたので他の観客に比べてもかなり手前までしか進めず他の観客の背中ばかりを眺めて侘しい気