父の病牀
8/3 15時半
病床に臥せた父を見ていると居た堪れなかった。
それでも父は懸命だったと思う。
無意識に動かせなくなり閉じきった指を何度も開いたり閉じたりしようとしていた。今日は以前より息が荒かった。身体もだいぶ痩せてしまった。瞬きも少なくなり一点を見つめているだけだ。一体何を考えているのだろうか。もはや考えるとこもできずにただ生命活動を維持しているだけかもしれない。
私はそんな父を見ていたくなかった、もともと頑丈なイメージはないがそれでも私にとっては唯一の父親だ。気が強い方でもないので、病の痛みは見ているのも辛かった。
私は現実から目を逸らすようにその場を立ち去った。
私が手を振ると父は力を振りしぼって振り返してくれた。
手を振られて振り返すただの条件反射のようにも見えた。
その日の日没後母から電話あり。
急いで車を回し病棟に引き返す。
母は思ったより冷静だったが、疲労が見受けられる。
当の父は荒い呼吸と身体は完全に動かせず床に完全に釘付けられていた。目は合わないが瞬きは若干ある。意識は遠くなっている様。20時半を回る前に一度目を閉じた。
父の病は膠芽腫という所謂脳神経系の腫瘍だった。こいつは腫瘍のなかでもとびきり悪性のもので父の側頭葉と前頭葉の一部を侵食した。人の脳はある程度領域ごとに機能や役割を分業してはいるが相補的な構成が成されている。
脳はよくボクシンググローブに例えられるが側頭葉は親指にあたる部分である。ここには言語を司る領域があり、父の最初の異変はまさに失語であった。
失語にも色々あるらしいが、父の場合は喋れなくなったり言語理解が出来なくなったわけではなく、複雑な言語の処理選択が出来なくなった。
手術をして腫瘍を摘出、リハビリをしながら投薬、放射線治療も行った。手術1年後には家にも帰ってきた。右半身を動かせなくなったが、在宅ワーカーを頼ってリハビリも継続した。その甲斐もあって一時は介助はあったが歩いて家から少し離れたパン屋にも出かけられるようになった。意思の疎通は相変わらず難しく度々短気な母と揉めていたこともあった。母も当初より回復傾向の父に対して普段通りのように接することができていたとういうことだろう。そういえばペンとノートを駆使しナンプレや漢字の学習をしていたこともあった。もとより勤勉な父らしい一面であった。膠芽腫は余命5年とも言われていたが、私たち家族は全快とは言わずとも、命の危機からの回避を期待することができるほどだった。
21時を回ったころに再び瞼を開けた。目は見えているか判別できない。先程とは違い呼吸は不規則に乱れている。本当に息をするのが精一杯の様。
父を撫でる母の後ろ姿はとても小さく見えた。
父は病気が発覚してからキリスト教カトリックの洗礼を受けた。正直なところ私は母が通い詰めている教会の神父に根回しをし病気を理由に無理矢理受洗にこじ付けさせたのではないか、と思っていた。しかし父が書いた洗礼式の感想を読み、私はその考えを改めることになった。
『生きているだけで意味がある。この単純そうな表現は、病気をした私にとって難しいことです。意味があるとは、誰がまたは誰にあるいは何のためになのか。思いもしなかった病気というメッセージをうけてから考えてきました。
考えがまとまらず混乱と整理の繰り返しをし、疲れた後に見たことも考えたこともないはっきりした不思議な世界が飛び込んできたのです。透明になっていく感覚が生まれ、痛みも苦しみも忘れて、何かの存在に動かされたようになるのです。その瞬間がやがて長くなる時間を経験し、透明な自分を別の誰かが見つめていて、静かで深く広く優しく、時には厳しい世界がありました。
夢だけで一生終わったかもしれません。しかし以前の生き方と違って何かを信じようとした一時が生まれ、夢ではない確信の世界を抱きました。なぜ生き方を変えようとしたのか長くなるので書きませんが、キリストとの不思議なつながりがあり、通じるものがあったのです。静かに川の流れや森の小鳥と話すようにキリストに耳を傾けてみたいと思いました。
キリストの教えはどんな人にも愛を用い、キリストの沈黙を理解しなんびとにも微笑みかけ、笑顔でいようと言われますが、今の自分には簡単なことではありません。それでも本当の気持ちで大切な人と過ごしていきたいのです。家族や親類友人等との結びつきを大切にしたい。マザーテレサのようにはできなくても誰かのためを思いながら生きたいと思いました。
入院生活、治療、リハビリの日々のなかで少しずつ、新たな生活に慣れていき、考えてみれば不運な結果かもしれませんが、幸福な毎日を過ごしているのかもしれません。痛みの代わりに心の自由があります。贅沢も名声も懐疑心も金銭欲も関係のない生き方が待っています。自然の美しさや雄大さが人生に溢れていることにも気が付きました。家族にも生活の影響が絡んでいますから頭が上がりませんが、今の自分を受け入れて生きています。
教会の洗礼時に恥ずかしながら涙声を出してしまいました。言葉がうまく話せない状況だったので、実は悔しい気持ちでした。けれどとても嬉しい時間をいただきました。神父様にはいつも入院先まで会いにきていただいていました。家族への感謝もずっと大事にしています。教会の方々以外にも病院のスタッフさんたちに良くしていただき、私たちのために一緒懸命頑張っている方々や忙しそうに働いてる方たちにいつもありがたく感謝しています。
自分の今の幸せにいつかじっと感じることが出来るでしょう。静かにおおらかに生きてみたい。自然の中でゆっくりと草原や太陽や風と友達になって。
この日を準備して祝福してくださった皆様、ありがとうございました。』 正幸
(原文まま)
9時半呼吸が変わる。音がなくなる。
瞳孔も開いてきた。
ああこうして考えてみると病気になる直前の父との思い出が全く出てこない。まあ不景気の世の中で仕事が上手くいかずそういう点で頼りなく見えた時期ではあったし、家族に黙って借金をして時々道を外したりしていた。
それでも最後は介護の職につき夜勤も含めて一生懸命に仕事をしていた。父の務めていた介護施設はちょうど私の高校の敷地内にあって法人は違えど同じ系列の施設であった。だから高校の時の介護実習で働いている父に遭遇した。何故か鮮明に覚えている。どういう訳か涙が出そうだった。
呼気のみに変わり、顔が引き攣る。
苦しそうにしている。少しずつ大きく間隔も開く。
呼吸が止む。母は何度も父を呼びかけていた。
兄ちゃんが車で迎えに来てくれたのだろう。
死を人の印象にしてはいけないのだろうが、私の父は死をもってその生を完成させてしまった一人だ。病気がなければこのように(親密というのは変だが)深く父について考えることはもう少し先のことだったのかもしれない。いやもはや考えることはなかったのかもしれない。逆に全く印象を変えていたかもしれない。
親孝行は満足にできなかったし、父についてなにも知らないままなことに後悔の念はあるが、父があの世で待っていることを期待して生きていこうと思った。
ありがとうございました。