2022.12.28 内的体験
ループしてループして流れて
ぐるぐる回って
フィルムを10秒から15秒毎に巻き戻しているかのように時間が進む状態になった。かけている音楽は全く頭に入ってこない。その歌の歌詞も辛うじて思い出せたがすぐに5秒前の自分に戻る。
それでも戻る前の自分はこの感覚に陥っているのに異常なくらい冷静な判断をしている。家に帰る道も知っている。ただ戻された時にさっきまで自分が何を考えたかを忘れたり思い出したりする。
人はある一つのことをしながら、もう一つのことを同時に考えることができる。それができない。一つのことを考えるとその想定から現実にバチっと引き戻される感覚が気持ち悪い。時間感応もできなくなる。だから会話も断片的にしか聞こえない、記憶できない。でも私は冷静になにか喋って物語る。あり得ない。
時間感応ができないというのは一つ一つの動作に対してどんな速さで動けばいいかわからない。という感覚に陥る。今回はなにもかも遅くなる感覚。巻き戻る感覚。とにかく時間は人に平等に降り注ぐものでもないのかもしれない。
フィルムが早くなりこれはやばいと感じたのが254沿いの某大学の前。すごく時間が遅く感じられた。ハザードを焚き車を止めたのは立体交差点のあたりはじめはAに変わったがそいつも突然の私の不調に慌てていたのか焦って車を動かすことができなかった。実際Aも同じものを取り入れていたので私は彼を全く信用できず、Bに交代。記憶が交互に降りかかって、ふらついていても俺はBに帰路を詳細に伝えることができた。こんな状態の自分に焦っているだろう。あり得ない。どうしてこんな冷静な判断をして家に帰っているのだろう。あり得ない。
ぐるぐる回っている感じ
生と死、あらゆる記憶を辿り、今日にもどってきたり、明日へ行ったり未来へ行ったり、自分の望む方へ世界が変わったようにみえたり、望む方へ世界が変わらなかったり、結局は確率の中、私がこの狭間からでることができるか否かも確率。あらゆる分岐点からどの方角へいくかは全て確率で成り立っていて、どれもその結果である。皆自ら選択しているように見えているが、どの選択肢も確率というプログラムに支配されているのである。
こんな現象も本当にあった現象なのか、それとも私の目が光を感知して見えているだけの現象なのか、あらゆる感覚が現実として錯覚しているだけの現象なのか。本当にあった現象とは思えない、あり得ないと思う。そこで忘れた記憶や現実の疑問を修復しようとあらゆる分岐点から近い過去(想定されるすべての選択肢の状況を体験してから)に戻るがやはりあり得ない。なぜなら本当にあったことを既に疑っているから。
人生は死んだら体と霊に別れ、霊は生死の狭間を彷徨う。確率のなかでループしているんだ。あらゆる確率の中の一人の俺は死んだという確率を引いたんだ、このタイミングで。他の俺は生きているのにこの霊として感知している私は、このタイミングで生という状況から一人でに脱落したのか。生死の狭間は木箱の中みたいに窮屈でありながら、自分の部屋のベッドの中であった。その後も救急車の音が聞こえると知覚が研ぎ澄まされ、私はその救急車で運ばれていて、気がつくと酸素マスクをはめ何かの機器を取り付けられ、病院の天井が見えて母が右で泣きながら手を強く握っていて、さっきの友人たちが不安そうに顔をのぞいてきている状態の確率。それも外した。よくわからないが咳をしたらさっき行った温泉の駐車場で頭をぶつけて倒れていることに気づく確率。それもハズレ。あの立体交差点で車を停めたタイミングでトラックにぶつかって大事故を起こしている確率。なぜトラックと想定されるかもわからない。私がこのループから抜け出せず精神を壊している確率。(これはかなり怖かった。精神疾患とはこのようなものかと理解した)。とにかくこのループを抜け出すために眠りにつこうと思っても眠りにつく確率に入れない。
このおかしな状態で今家から外に出て車に轢かれる確率は、できれば実行しないでおきたい。
生と死全てを悟ったと理解した私はその代償として死へと向かうのだろうか。死とは生死の世界を離れられない状態。記憶と知識と時間のループ
ここで神はいないと思った。人間はあくまでも確率の中に生きる存在であり、それはこの物理世界(70億人で構成され国家主義とか民族主義とかで雁字搦めの現実世界)もそうであるように、精神世界(私個人が主観として形作られて、私から見たあらゆる分岐点の連続)もまた確率である。どんな確率の先の世界の私にも短い時間であれば体験できた。そのあとはまた引き戻される。確率は確率であるから。母数が広がれば必ずしも数少ないとは言い難い。そうか神はいないから人類史未だに戦争や争いの2文字はなくなることがないのではないか、あらゆる人の不幸が成り立つのではないか。それは世界にあるとされるどの神でもなくただの確率であったかのように。
それとも生へともがくうち体が衰弱してい死ぬのではないか。過呼吸に終始止まらない心臓の激しい鼓動、腕から上半身にかけての体の痺れなど心因的な体の不具合、実際の体にはなんの異変もないのかも知れないが。
形而的トラフィックループを流されていく霊と器としての体。
知的障害ループ
自分はほんとは知的障害ではない自分の霊に、どういうわけか脳が誰かに遠隔操作されていたり、上手く機能しない状態の体に閉じ込められている。こんな状態でいるくらいなら死にたいとさえ思った。自殺衝動。自分の命を諦めることが脳裏を過る。
死にたいと思ったときにやはり結局自分は自殺という手段に踏み出す選択をすることは出来なかった。こんな状態でも親に迷惑をかけることは嫌だ。こんな状態でも親のために生き続けたいと思った。死はもういまの母には重すぎる負担だ。こんなにも大事に育てた子を失ってしまうよりは精神を病んでしまっていても生きているほうが良いと思うだろうか。
これ以上母に死を目の当たりにすることは赦されない。恩を仇で返すことは決してできない。
体験したことのない現実を懐疑的に見た。
そのくせに間違った推定達にこだわり。
現実をあり得るものとして承認できない。
もどってこれないループで時間もかなり掛かったように思えた。
このまま一生このループのなかで生きていくのか、もっと時間が経てばこの感覚もなれてくるのだろうか。この違和感のある感覚を保持したまま生を全うしていくのだろうか。おかしくなりそうだ。
戻ってくる方法は想定できる限りいくらでもあった。
知識さえあれば想定できる。想定したものがこの現実世界で、現実世界は私の想定の中の精神世界でしかない。私が知識と呼んでいるこの”何か”も実は価値のあるものでなく、ただ複雑に絡まっている紐のようなもの。現実世界のあらゆる現象はそこからランダムに発せられる電気信号の明滅にすぎないのかもしれない。この世界はその産物で、想像している自分はある意味創造主であること。自分が世界の理を全て知っている(知らないことも想像や知らないという無知識で補っている)創造主である。しかしそれは神に等しい存在で、全てを知った代償は死である。私は私ではない感覚で、意識とは少し違う人格の神的な霊によって動かされている。私は私と二人で私を繋ぎ止めている。
でもそれは全能ではなく自己完結してループするだけの世界である。結局自分が知覚する世界とはそんなものなのか。人の覚醒(使われていない脳の領域を限界まで起動させる)とは現実世界と引き離され、精神世界について理解し、現実を浮遊状態(自分の不具合なのか世界の不具合なのかわからない、不具合を不具合と承認できない状態)で生きていくことなのか。
神に近づく引いてはいけないトリガーを引き、流してはいけない電流が流れてしまった。取り返しのつかない神との融合、回帰であった。
私は死を悟り、心臓が鼓動を早まる。きっと今頃俺は病院か救急車のなかにいて気づいたら知らない白い天井。体が痺れ、死はもしかするとこのループに支配されながら永遠に彷徨うものなのか。これから彷徨う長い永遠を想像すると気が狂ってもおかしくない。気が狂うというのはこういうことか。全て理解した。生命維持のゲシュタルト崩壊。
このループから抜け出すことがどの想定を使ってもできないのだ。想定はあくまで想定で、現実とは異なるからだ。いろんな想定は確率に依存しながら分岐していくはずなのに。分岐は自分の知らないものがあることも前提としているがその分岐先はわからない。シュレディンガーが物語る実験とはとはこういうことなのかもしれない。結局自分が現実や真実と感知している世界だけで成り立っている世界ということだ。
それから程なくしてか長い時間をかけてか私は現実に戻ってくる。すうっと現実世界が腑に落ち始める。今まで疑っていたことがどうして疑っていたのか分からない。現実世界はそこにある現実として今現実に実感できるようになる。心臓の鼓動も緩やかになり、体の不具合も少しずつ緩和していく。ああようやく戻ってきたと自覚する。長い長いループも緩やかに弧を大きくしやがて直線になる。私は私一人を承認し、私であることを私に証明した。