失った時のこと
きみと僕の季節が始まって何日か経過したある日のことだった。
きみは突然水をやりたいと言い始めた。
勿論反対した。今考えると僕はどういう訳かそういう仕事について少なからず偏見を持っていた。
何処でどう形作られた偏見かは解らないがはっきりと嫌だった。でもぼくはきみがどこかへ行ってしまうようなそんな気がした。
吐き気と倦怠感がからだを飲み込んだ。
以前読んだ本に生物学的な境界について書いてあったのを思い出した。
生物の環境は境界によって隔たれ、自己の境界とは内部環境と外部環境によって構成されている。内部環境とは言うまでもない個を形成する構造体、器官、体液、細胞である。外部環境とは気候や風土などの自然環境がそれに値する。加えて生存をする上で共生、競合をする同種他個体、異種個体も環境であるという。
また、人間の場合人と人との関わりが複雑に交錯し合い、自己を円の中心と考えたという意識によって境界そのものになるらしい。ATフィールドのことか?
きみはぼくの外部環境であるのにぼくの内部環境に影響を与えている。
しかしぼくはその時きみの円の中心にはいなかった。
結局他人は自分とは違う存在で理解し得ない。だいたい自分自身でさえ完璧に理解しているとは到底言えない。
物事がどこにあるのかを正確に捉えるためには最低限三つの要素が必要である。安定した椅子を作るためには三本の脚が必要であるし、全地球測位システムでは三角測量が基本原理になる。三次元の事象を観測するためにはxとyとzの軸が少なくとも求められる。人は一人でその三つの観測点を持つことはできない。だから他人のことも自分のことも理解することはできないのだろうと僕は思う。勿論理解していることも少なからずあるだろうが、それが誤解でないと証明することもまたできない。すみれの言葉を借りると理解は誤解の総体である。これに尽きるのだろう。
独りに慣れていたはずなのに、ぼくはきみを必要としていた。
確かな所以と根拠は言葉にできないが、それはアイデンティティを確かめる為の利己的な愛ではないはずだ。
でもそれはぼくの考えであってきみの考えとは異なる。
そう試験問題は主観的に読み解いてはいけないのだ。
きみはぼくのことをそのように捉えていない可能性がある。
そうこれは理解していると思っていた誤解。
結局のところぼくは葛藤の末、水への偏見を取り払うことしかできなかった。
ステレオタイプの障壁は厚く、崩壊させるのは困難である。
でもぼくはそれしか方法を見出せない。
最後にぼくはきみと偏見の両方を失った。