【小説】ロックバンドが止まらない(123)
「まさか、それを言うためにわざわざここまで来たの?」
そう言われると、今度は神原が気恥ずかしさを感じてしまう。自分の意図が見抜かれているようで、顔が赤くさえなってしまいそうだ。
だけれど、神原は笑みでごまかすことなく「まあな」と認める。自分の思惑が見透かされてしまっていたとしても、構わないと思えた。
「そっか。ありがとね。私もここに来ることで昔の気持ちを思い出せた。ベースを弾いてバンドで音を出すのが楽しくて仕方なかった、昔の気持ちを」
「そうだな。俺もここに来て、このバンドを組んだ頃が、はっきりと思い起こせたよ」
「うん、あのときの私たちは、今振り返ればシャレにならないくらい下手で。でも、演奏してるのがただただ楽しくて。別に今もその気持ちはあるんだけど、でも締め切りとか売り上げとか色々考えなきゃいけないことも増えて、それだけじゃいられなくなってるのも事実だもんね。昔の私たちから見たら、『何悩んでんだよ』って思うかもしれないね」
「園田……」
「バンドを組み始めた頃から考えると、曲がりなりにもバンドだけで食べていける今は、これ以上ないほど幸せな状態だもんね。昔の自分に恥じない演奏をしたいなって、ここに来て思うことができたよ。ありがとね、泰斗君。連れてきてくれて」
神原は胸が詰まる思いがした。今の自分たちは、かつての自分たちが描いた夢の中にいる。これを幸福だと言わずしてなんと言うのだろう。
「それにさ、ちょっとうまくいき始めたからって、よく考えてみたらまだまだ全然満足できる状態じゃなかったしね。もっと良い曲を作って、CDを売って、ライブハウスにお客さんを呼びたい。ツアーも東名阪だけじゃなく、もっと色々なところでしてみたいし、フェスにももっと出てみたい。何よりインディーズデビューのときに泰斗君が語った、武道館って夢はまだ実現してないもんね。慢心なんてしてらんないよ」
「ああ、俺もお前が言う通り、Chip Chop Camelでやりたいことは、まだいくらでもあるよ」
「うん。そのためにはやっぱり一つ一つの活動に全力で取り組んでいかないとね。まずは土曜からのレコーディング。大丈夫だよ。ここに来たことで少し気持ちは軽くなったし、昔の自分に『何やってんだよ』って言われないような演奏がしたいって、今は思えてるから」
園田の表情は憑き物が落ちたかのようにすっきりとしていて、神原ももう大きな心配はいらないと思えた。そう言ってくれただけで、寒い中ここまでやってきた価値があると感じられる。
自分の判断は何一つ間違っていなかったのだと、誇らしくさえもなった。
「ああ、俺も同じ気持ちだよ。レコーディング、頑張ろうな。今抱いている夢を、一つでも多く叶えられるように」
「うん」と頷いた園田の横顔に、もはや迷いは見られなかった。土曜からのレコーディング、その前に控えている大詰めの練習でも、今とは違う的確で躍動感のあるベースを弾いてくれるだろうと感じられる。
不安に感じていたレコーディングを楽しみに思う気持ちも神原には芽生えていて、それは園田とここに来ていなければ得られない感情だった。
かつて幾度となくお世話になった吉祥寺の貸しスタジオでの練習は、いわば一日だけの限定行事で、その翌日のバンド練習はサニーミュージック所有のスタジオで行われた。
顔を合わせたとき、園田だけでなく与木や久倉も清々しい表情をしていて、誰にとっても昨日の貸しスタジオでの練習は効果があったのだと、神原には感じられる。
いざ、練習を開始してみても、四人の演奏はこれまでにないほどスムーズに揃った。もうすぐに迫ったレコーディングに緊張はしていても、自分たちの演奏に余計な力が入っている様子は神原には見受けられない。
中でも園田の変わりようは顕著で、リズムキープも安定感を取り戻し、一音一音に歯切れの良さが増していた。バンドを下支えする園田が復調した意味は大きく、神原たちも安心して自分の演奏を行える。
バンド練習が終わったとき、二日後には始まるレコーディングに向けて、多少なりとも視界が開けてきた気が神原にはしていた。
そして、迎えた土曜日。今回のレコーディングも。メジャーデビューをしてからずっと使用しているスタジオで行われた。伊佐木をはじめとするスタッフ陣も変わっていなくて、神原たちが感じる緊張をいくらか和らげる。
レコーディングは今回も、まず久倉のドラムから始まった。
神原たちに声をかけられながら、レコーディングブースに入っていく久倉。ドラムを叩いている様子を、神原たちはプレッシャーをかけない程度に見つめる。幸い久倉の演奏は練習での調子の良さを維持してくれていて、OKテイクを作るのにも、想定していたほどの時間はかからなかった。
ひとまず「お疲れ様」と声をかける神原たちに、久倉も落ち着いた表情で応じていて、まだ気が早くても神原には、今回のレコーディングは良い滑り出しができたと感じられた。
久倉のドラムの次は園田のベースのレコーディングだ。
神原たちはレコーディングブースに向かっていく園田に、再びめいめいに声をかける。神原たちの言葉に園田は気負った様子を見せずに答えてくれていて、実際それは演奏にも表れていた。
園田の演奏は着実でミスもほとんどなく、それでいて活気を帯びていて、それはあのワンマンライブ以前の園田の本来の姿に違いなかった。神原たちも大きな心配をせずに、安心して聴くことができる。
三つのテイクを録ってレコーディングブースから出てきた園田は晴れやかな表情をしていて、手ごたえを得ているらしい。神原たちも迷わずに、「良かったよ」と労うことができる。
OKテイクもその三テイクで作られて、レコーディングはかつてないほどスピーディーに進んでいっていた。
与木のリードギターも問題なく録り終わり、初日のレコーディングは最後に神原の番を迎える。ここまでは流れるようにきていて、予定にもまだ余裕があったから、プレッシャーを感じつつも、神原はいくらか気持ちが軽くなった状態でレコーディングブースに向かう。
伊佐木の指示のもと、まずはバッキングギターを録音する。スタジオでも家でも幾度となく練習を重ねてきていたから、神原の手は澱みなく動いてつかえることはない。いい意味で練習通りの演奏に、弾きながら自分の心が徐々に安定していっているようにさえ、神原には感じられる。
指定されたテイク数を録り終えたときに、園田たちは優し気な表情を見せていて、自分の演奏に大きな瑕疵がなかったという思いを、神原は強くしていた。
バッキングギターも歌も神原は指定されたテイク数の中に収め、初日のレコーディングは予定よりも一時間以上早く終わった。アルバムのレコーディングは長丁場だから、少しでも明日以降に体力を温存できて、自分たちを助けられたような感覚が神原たちにはする。
それでも、ざっと七時間はスタジオにいたから、やはり疲れている部分は神原たちにはあって、今日はどこにも寄らず解散しようという流れになる。
まだ明日も明後日も控えているから、無駄に体力を使うわけにはいかなかった。
神原たちが自分たちの身体に溜まっていく疲れを感じながら、それでもレコーディングは連日行われた。一テイク一テイク着実に演奏していくことで、少しずつでも確実にレコーディングは進んでいく。
レコーディングが終わった曲が、一曲また一曲と増えるたびに、神原には疲労と引き換えにやりがいを感じた。中盤になってもまだ予定通りに進行できていて、誰の演奏にも今のところ大きなミスは見られない。
毎日何時間もスタジオにこもっているのは大変だったけれど、神原たちはお互いを励まし合って、前向きな姿勢でレコーディングを続けられていた。
「はい、これでお願いします」
全員の視線が注がれる中で、神原がそう口にすると、スタジオには大きくて深い安堵が広がる。
神原たちのセカンドアルバムのレコーディングは、しっかりと事前に立てた計画の通りに完了していた。最後の方はさすがに全員の表情に疲れは見えていたけれど、それでも演奏は疲労を感じさせない冴えたもので、自分たちが積んできた経験のほどを神原に思わせる。
伊佐木をはじめとしたスタッフに、ミキシングやマスタリングをよろしくお願いしますと改めて依頼してから外に出ると、つんと冷え切った空気が神原たちを包んだ。
それでも、身を震わせるような寒さも、今だけは神原にはあまり気にならない。レコーディングが終わった解放感は、神原の胸を暖めてくれていて、実際に体温が上がっているかのようですらあった。
レコーディングを終えた神原たちは、一日休んでからまたバンド練習を再開させた。年の瀬も迫った二八日に、下北沢のCLUB ANSWERで行われるライブイベントへの出演を控えているためだ。
いい形で一年を締めくくりたいと、神原たちは気合いを入れて練習に臨む。
園田のベースはレコーディングを経てすっかり調子を取り戻したようで、その演奏は揺るぎなく、久倉のドラムとの息もしっかりと合っていた。
集中した濃い練習が行えていることに、神原の自信も深まっていく。この調子でライブに臨めれば、何の問題もないだろうと思えるほどに。