スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(167)
前回:スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(166)
「それでは、今日の練習はここまでにしましょう」
静かに言う小船に、晴明も頷く。一息つくのは、心の中だけにした。
親身になって指導してくれている小船にも、晴明は未だに八月のコンサートを中止してしまったことを引きずっていた。
「小船先生、今日もありがとうございました」
ひとまずいつも通りお礼を言う。だけれど、小船の表情は難しかった。今日の指導に手ごたえを得ていないようだ。
そして、それは晴明も同じように感じていたから、練習室の空気は暗雲が立ちこめたように重たかった。払拭しようにも、明るく振る舞うことは憚られる。
晴明は小船の目を見ることができない。
「ベートーヴェンのソナタ第八番『悲愴』、おかげで形にできそうです。次のコンサートにはなんとか間に合いそうです」
晴明がそう言っても、小船は苦虫を嚙み潰したような顔をやめなかった。「似鳥さん」と呼ぶ声にも、緊張が走る。
「今日、練習にあまり集中できていませんでしたね?」
心のうちを言い当てられて、晴明はとっさに返事ができない。
下を向く晴明にも、小船は容赦なく続ける。
「いえ、正確には今日もと言った方が正しいでしょうか」
冷静な言葉は、晴明の図星を確かに突いた。空気がより重苦しくなっていく。
「似鳥さん、正直に言わせていただきます」
改まった前置きに、晴明はかすかに息を吞む。何を言われるかは、薄々想像がついていた。
「私は現状では、次の千葉県秋のクラシック音楽祭への出演は、辞退した方がいいと思います」
小船が言った内容は、晴明にとっては想像通りで驚きのないものだった。晴明の次のステージは、一一月の毎年恒例の音楽祭に既に決まっていた。あんな裏切り行為を働いたにもかかわらず、県はまだ晴明を信頼しているようで、出番を取りやめずにいた。
自分を求めてくれている人がいることは、晴明には素直にありがたかったから、何とか踏ん張って練習を続けることができている。だけれど、どこか身が入っていないのは、晴明自身が一番感じていたことだった。
「そうですか……。僕としてはぜひ出演したいと思ってるんですけど……」
「似鳥さん、本当にそう思っていますか?」
訊き返されて、晴明はぐうの音も出ない。とりあえず取ったファイティングポーズは虚勢だと、すぐに見抜かれていた。
「自分が一番よく分かっていると思いますが、似鳥さんの今のピアノは迷いだらけです。自分がピアノを通じて何を表現したいのか、そもそも自分はピアノを弾いていいのかどうかさえ、分かっていないのではないでしょうか」
小船の分析は否定できず、晴明は首を横に振ることさえできなかった。「はっきり言わせていただきます」という言葉に、竦みあがる思いすらする。
「今の似鳥さんのピアノはお客さんに聴かせられる状態ではありません。このままの状態で演奏しても誰一人いい思いはしません。もちろん弾いている似鳥さんにも。だから、改善の見こみが見えない限りは、演奏活動をセーブせざるを得ないと、私は考えています」
小船の見解は冷静で、きわめて現実的だった。晴明だって今の不安や心配だらけの状態でピアノを弾いていいのか、毎日悩んでいる。
でも、ここでやめてしまっては「ピアノを弾き続けてほしい」という波多野との約束を果たせない。
だから、晴明は意識して顔を上げた。たとえそれが意地でしかなかったとしても。
「いえ、弾きます。弾かせてください。僕はこんなところで終わるわけにはいかないんです。集中に関しては何とかします。お願いですから、僕をステージに立たせてください」
それは何の根拠もない懇願だった。何とかすると言ったって、具体的な方法は一つも思い浮かんでいない。
だけれど、晴明はそう言うしかなかった。ここでやめたら今までの努力も、波多野との約束も全てが無に帰してしまう。
「……分かりました。私も乗り掛かった舟ですしね。似鳥さんがまたステージに立てるよう、考えたいと思います。でも、一番は似鳥さん、あなたのやる気次第ですよ。本当にまたステージに出て演奏したいですか?」
再びの質問に、晴明は今度は明確に頷いた。無理をしていると見透かされてもいいと思った。まず出演すると決めなければ、気持ちが追いついてくるはずはない。
少し間があったのちに、小船も頷いた。たぶんまた心のうちは知られていただろうが、それでも晴明は構わなかった。
再びステージに出て、波多野との約束を果たす。それが今の晴明にとっては全てだった。
肌に触れる空気が少しずつ冷たくなっていく、一〇月の中頃。日曜日の午後に晴明はリビングで読書をしていた。とはいっても読んでいるのは少年漫画なのだが、練習の休憩中にこうして漫画を読んで一息つくことで、晴明はわずかでも心が安定していく気がする。
調子は悪くないものの、次のコンサートが近づいてくるにつれて、緊張を感じずにはいられない。突如コンサートを中止させた自分がどんな目で見られるかと考えると、怖くさえもあった。
冬樹はビジネス書を読み、奈津美はスマートフォンで動画を見ている。三者三様の過ごし方を晴明たちがしているなか、ふと玄関のチャイムが鳴った。
いの一番に動き出したのは、イヤフォンをつけていたはずの奈津美で、返事をしながら玄関に向かっていく。
晴明はそこに続かなかった。今日は誰も何の約束もない。きっと宗教の勧誘か何かだろうと、気にも留めなかった。
それでも、玄関内にあるモニターから流れる声を聞いたとき、晴明は漫画を読む手を止めてしまう。やってきたのは上條だった。波多野がフランスに行った日の空港以来、晴明たちとは会うどころか連絡も取っていなかったから、晴明は意外に感じる。
平然とした声からは来た理由は読み取れなくて、晴明はソファから立ち上がり、玄関へと足を運んだ。
「上條さん、お久しぶりですね。どうぞ上がっていってください」
「いえ、こちらで失礼させていただきます。長い話ではないので」
そんな奈津美との会話を耳にしながら、晴明が玄関に着くと、上條は見慣れたスーツ姿で立っていた。灰色のネクタイに、スーツは皴一つない。
晴明はスーツを着た上條しか見たことがなかったから、特に違和感は抱かなかった。
「晴明くん、お久しぶりですね。どうですか? あれからピアノは続けていますか?」
話しかけてきた上條の目は穏やかだったけれど、笑みはなかった。少し引っかかるものを感じながらも、晴明は答える。
「はい。何とか。今は来月のコンサートに向けて練習中です」
「そうですか。それはよかったです」
上條は自分を納得させようと言っているようで、表情にどこか割り切れないものを晴明は見る。その短いやり取りだけで悪い予感を抱くには、晴明には十分だった。
気になって出てきたのだろう。冬樹が「上條さん、今日はいったいどうされたんです?」と聞いている。
上條は少し下を向いて目を泳がせてから、決意を固めたかのように、再び晴明たちを見つめていた。
「はい。率直に申し上げます。波多野が昨日、生家で息を引き取りました」
いつそうなってもおかしくないと、分かっていたはずだった。それこそ突然やってきた上條をこの目で見た瞬間から、その可能性はずっと頭から離れなかった。
でも、いくら覚悟という鎧を身に纏っていても、現実はその上から容赦なく殴りつけてくる。
晴明は頭を強く打ったかのように、一瞬何も考えられなくなった。少し遅れて、悲しいという感情がようやく湧いてくる。
でも、せき止められたかのように涙は出なかった。前触れがなかったから、戸惑っている部分がまだどこかにあった。
「上條さん、それは本当ですか……?」
意に反して、つい確かめる言葉を口にしてしまう。もう覆らない現実を思い知るだけだというのに。
「はい。向こうの時間で昨日の夜の八時頃だったそうです。波多野は、最後は母親の側にいることを望んだようで。そっと眠るように息を引き取ったそうです」
「そんな……、波多野先生がそんなことになってたなんて。上條さん、どうして教えてくれなかったんですか?」
冬樹がかすかに震えた声で言う。最大限申し訳なさそうにしている上條の表情も、晴明には何の免罪符にもならない。
「それは波多野から言われてたんです。自分の病状のことは、晴明さんたちには伝えないでおいてくれと。ピアノに支障が出るようなことがあってはいけないと。全ては晴明さんが良い演奏家になるため。そう言っていました」
遠慮深げに言う上條に、晴明は直感する。そんなの間違ってる、と。
晴明に心配をかけまいとした波多野の気持ちは、理解できる。でも、分かりたくないと思った。
本当に自分のことを思っているなら、病気の進行や体調のことはこまめに知らせるべきだったのではないか。
しかし、それではその度に波多野のことが気になって、ピアノに集中できていなかったかもしれないとも、晴明は思ってしまう。
正解なんてなかったのだ。どちらにせよ、待っていた結末が同じならば。
冬樹が波多野の葬儀のことを聞いている。上條が近く近親者のみで行われる予定だと答えている。奈津美も交えた三人のやり取りが、晴明には自分の側ではない、どこか遠くで行われているものにしか感じられなかった。
信じたくなくて、受け入れることができなくて、思わず踵を返して玄関から離れる。両親の呼び止める声も無視して、リビングに戻る晴明。
自分の体重の分だけ沈むソファが、カーテンの隙間から漏れる日差しが、じんじんとする胸の痛みが、この状況が紛れもない現実だということを、喧伝してきていた。
それから、晴明はその日中はピアノを弾く気にはなれなかった。残酷な現実を前にして、受けた衝撃を整理する時間が必要だった。
夕食を食べて、学校の課題に取り組んで、ピアノを弾かない以外は何の変哲もない日曜日を送るように努めた。
だけれど、寝て起きてみても、学校で過ごしてみても、頭は未だに混乱していて、気持ちの整理をつけることはできていなかった。全てのことが目を滑り、耳を通り抜けていくように感じる。
話しかけてくる桜子も、素っ気なくあしらってしまった。普段通りになんて、過ごせるはずがなかった。
それでも、練習はとっくの昔に晴明の身体に習慣として刻みこまれていて、どことなく落ち着かない感じに、晴明は練習室に向かわざるを得なかった。
ドアを引くと、もう五年以上も弾いているグランドピアノは、最後に見たときと何も変わらない姿で、部屋の中央に鎮座していた。天井照明を浴びて、光沢を帯びるその表面が晴明をかすかに竦みあがらせる。
昨日も、上條が来る少し前までは弾いていたというのに、一晩見なかっただけで、なんだか別の物体に変わってしまったようにさえ見える。
椅子に座るのが怖い。そう思ったのは、あのときのコンサート以来だった。
それでも身体は逃げることを許さず、晴明をピアノの前に座らせる。鍵盤が鋭い牙みたいだ。
だけれど、晴明はゆっくりと手を持ち上げて、鍵盤の上に降ろした。そのまま指慣らし用の練習曲を弾こうとする。普段だったら、目をつぶっていても弾けそうな曲。特別な意識は必要ない。
なのに晴明の手はまるで、油を注さなかった機械みたいにぎこちなく動き、全く曲の体を成さなかった。
頭では次にどの鍵盤を弾けばいいのか、完璧に分かっている。だけれど、手がついていかない。ミスタッチを繰り返し、か弱い音を奏でる指が、自分のものではないみたいだ。
練習曲は根底から崩壊し、耳障りな雑音へと姿を変える。自分の演奏がとても聴くに堪えなくて、晴明は鍵盤から手を離していた。
そっと自分の手の平を見つめる。日焼けしていない肌は、血の気が引いたかと思うほど白かった。
厚い手の皮に、波多野との記憶が蘇る。出会ったときから空港での別れに至るまで、ありとあらゆる出来事がこの手に刻みこまれている。最後に触れた波多野の背中の感触までリアルに思い出せて、晴明を往時の瞬間へと引きずりこむ。
一滴の水滴が、ふと手のひらを濡らす。それは紛れもなく、晴明の目からこぼれ落ちた涙だった。
その明確な感触が引き金となって、晴明の双眸からはとめどなく涙が溢れだした。顔に手を当てて、声を押し殺して泣く。
何重にも防音設備がなされた練習室は、晴明の小さな嗚咽を外には漏らさなかった。