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【ネタバレあり】映画『ROMA/ローマ』感想【尊さがとめどなく溢れ出てくる】


お久しぶりです。これです。最初に言っておくと、今回も映画の感想noteです。


さて、今回観たのは『ROMA/ローマ』。『ゼロ・グラビティ』を手がけたアルフォンソ・キュアロン監督のNetflix発の映画です。アカデミー賞で監督賞や外国語映画賞を受賞し、日本での注目独活も高いこの映画。私も一応Netflixには入ってはいるんですが、家のパソコンだと映らないし、かといってバキバキのスマホで見たくはないし、というわけで劇場公開を心待ちにしていたんですよね。長野では(ry


では、前置きもこれくらいにして感想のほうを始めていきたいと思います。ただ、『ROMA/ローマ』についてはもういろんな人がいろんなことを書いてますし、何を書いても被っちゃうんですよね...。でも、そんな気持ちにも負けずに書いたので、お読みいただければ幸いです。何卒よろしくお願いいたします。







―目次― ・尊い… ・画面作りや音楽が尊い… ・支えあうソフィア家とクレオが尊い… ・最初のシーンとラストシーンの対比が尊い…




―作品情報― 「ゼロ・グラビティ」のアルフォンソ・キュアロン監督が、政治的混乱に揺れる1970年代メキシコを舞台に、とある中産階級の家庭に訪れる激動の1年を、若い家政婦の視点から描いたNetflixオリジナルのヒューマンドラマ。キュアロン監督が脚本・撮影も手がけ、自身の幼少期の体験を交えながら、心揺さぶる家族の愛の物語を美しいモノクロ映像で紡ぎ出した。70年代初頭のメキシコシティ。医者の夫アントニオと妻ソフィア、彼らの4人の子どもたちと祖母が暮らす中産階級の家で家政婦として働く若い女性クレオは、子どもたちの世話や家事に追われる日々を送っていた。そんな中、クレオは同僚の恋人の従兄弟である青年フェルミンと恋に落ちる。一方、アントニオは長期の海外出張へ行くことになり……。2018年・第75回ベネチア国際映画祭コンペティション部門で、最高賞にあたる金獅子賞を受賞。第91回アカデミー賞でも作品賞を含む同年度最多タイの10部門でノミネートされ、外国語映画賞、監督賞、撮影賞を受賞した。Netflixで18年12月14日から配信。日本では19年3月9日からイオンシネマで劇場公開される。 (映画.comより引用)







・尊い…


いや…尊い…。尊すぎますよ、この映画。メキシコシティはコロニア・ローマで暮らすソフィア一家と、住み込みで働くクレオの物語なんですけど、何が尊いかってなんてことのない日常が描かれていることなんですよね。みんなでご飯を食べて、父親を笑って迎え入れて、時には喧嘩もする。その何の変哲も無い日常が最高に尊い。


ただ大変なこともありますよ。地震で赤ちゃんが死んだり、山火事が起きたり、学生がデモを起こしたり。それに舞台となった1970年頃のメキシコって、Wikipediaによると一党独裁だったようで、経済格差や自由な隣国アメリカへの羨望からデモがよく起きていたらしく、300人ほどの死者を出したものもあったそうです。一党独裁に陰りが見え始め、国内が混乱に陥っていた時期みたいなんですよね。でも、そんな大変な時代でも、家族と家政婦の営みは変わらない。個人的に観ていて『この世界の片隅に』を思い出しました。『片隅』もすずさんというミニマムな視点から時代の大変さをそれとなく描いていて最高だったなぁ。


この映画は日常→不測の事態→日常という風に変遷していくんですが、最終的に日常に戻るのが本当に素晴らしいんですよ。彼ら彼女らの繋がりは簡単には途切れないということが示されていて感動しました。








※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。






・画面作りや音楽が尊い…


さて、この映画の持つ尊さを最大に盛り上げていたのが、画面作りです。この映画で切り取られた風景・光景の美しさというのは誰もが認めるところでしょう。本当に不純物が一つも無くて、とても済んでいてキレイ。ソフィア家の階段の多い構造や、本当にどこにでもあるような、それこそ日本でも普通に見られる間取り。発展した街並みから、自然の豊かな郊外までどこをとっても思わず見惚れてしまうほどです。犬のフンやモロ出しのチ〇コまで美しいってどういうことですか…。


たぶんこれはこの映画が白黒の画面を採用したっていうことが一番大きいんでしょうね。ただ単純に白と黒だけじゃなくて、グラデーションがある。どっちつかずのグレーがある。明度の違いで、この白や黒、グレーは何色だって想像できるのがモノトーンの映画の楽しみ方の一つだと思うんですけど、『ROMA』ではそれが最大限に活かされていた印象でした。壁の色や車の色。空の青と海の青はちゃんと違っていて、白黒でも雰囲気が手に取るように分かります。それに白黒って懐かしい印象を与えるじゃないですか。それは温かみにも似ていて安心するといいますか。家族と家政婦の何気ない日常を描くというこの映画のコンセプトは、この白黒の画面が与える安心感が無ければ成立し得なかったと思います。


それに、カメラワークもどこか遠いところから客観的に撮っていた印象があるんですよね。キャラクターのアップのショットは少なくて、多くの場面で背景を入れているといいますか。クレオが働くシーンだって必ず家の壁が背景に入ってましたよね。これによってキャラクターが世界の一部であることが示されるんですよね。ちゃんと世界に生きている人間だって。簡単に言えば生活感が出るんですよ。かけがえのない生活感が。生活の描写はこの映画の生命線なので、ここは妥協せず徹底的にこだわっていた感じがあります。


それに推測なんですけど、この映画って光の使い方が上手いんだろうなって。どの角度からどれだけの光を照らせば最大限に映えるかがちゃんと計算されている。ソフィアの家には吹き抜けがあって日光が差し込んでいて明るい印象を与えますし、なんといっても終盤の海辺のシーンですよ。あのシーンは6人を後ろから日光が照らしていて、後光が差しているといってもいい神々しい印象すら与えます。逆光で6人の表情が見えづらいのも心憎い演出ですね。照明班や撮影班は最高の仕事をしていました。手放しで称賛したい気分です。


また、意外だったのが『ROMA』では音楽がふんだんに使われていたことです。正直白黒映画ですし、もっと敷居高い感じを予想していたんですが、そんなことはまったく無かったです。音楽隊がマーチを鳴らしながらソフィア家の前を横切ってくれますし、テレビからも明るい歌が流れる。正月にはみんなで踊っていますし、ギターの歪んだ音さえ聞こえる。想像以上にポップでエンタメしていました。日常をただ描くという退屈になりかねない展開を、音楽が上手く盛り上げていた印象です。ただ、山火事のときに仮装していたおっさんが歌っていたのは意味わかんなかったですけど。マジなんだったんだあれ。










・支えあうソフィア家とクレオが尊い…


さて、これは今調べたのですが、物語には縦軸と横軸があるといいます。縦軸はストーリーの柱。横軸はそこから派生したエピソード群。『ROMA』の横軸は紛れもなく家政婦クレオとソフィア家(主に子どもたち)との日常です。では、縦軸は何かというとクレオの出産なんですよね


クレオはボーイフレンドのフェルミンと映画に行きます。そこで、自分が妊娠しているかもしれないということを告げるわけですね。この前のシーンでフェルミンが裸で棒を使った武術をチ〇コ丸出しで(結構大きかった)披露するシーンがありまして、まあその後にやったんだろうと。で、これを聞いたフェルミンは逃げ出してしまいます。


病院に行き、妊娠が確定したクレオ。逃げたフェルミンを探しに行きます。フェルミンは道場で修行をしているわけですが、ここの日本文化が間違って伝わってる感面白かったなあ。片言で「イチ、ニー、サーン」とか行っちゃって。そもそも棒を振り回す武術なんて日本にあります?と思ったら沖縄の方にあったわ。棒術って言うらしいです。すみませんでした。まあそれはさておき、フェルミンは「責任取れや」と言いに来たクレオに対し、「もう話しかけてくんな」と突き放す態度をとります。このクソ野郎が。


そして、ベビーベッドを買いに行くクレオとソフィアの母・テレサ。外では悲惨なデモが行われていて、フェルミンもデモに参加した学生を撃ち殺す集団の一人として参加していました。フェルミンに銃を突きつけられるクレオ。フェルミンが去った後にクレオは破水します。急いで病院へ向かうクレオとテレサですが、クレオの出産は残念ながら死産に終わってしまいます。クレオは息をすることの無かった赤ん坊を抱かせてもらうのですが、ここも手術出の背景と一緒にミドルショットで映されていて、残酷さが増していてとても悲しくなるシーンでした。





ショックを受けて言葉少なげになってしまうクレオ。ソフィア家はそんな彼女を海に誘います。ここからが私がこの映画で大好きなところなんですが、クレオの再生が描かれているんですよ。クレオの再生を一手に担っていたのが、ソフィア家のトーニョ、パコ、ペペ、ソフィという4人の子どもたち。端的に言うとこの子たち、クレオのことが大好きすぎるんです。クレオにめっちゃ懐いていますし、最後に「クレオが生まれた村に行きたいな」とか言い出して本当に尊かったです。


きっと子どもたちにとってはクレオが家政婦かどうかなんて関係ないんでしょうね。ただの働き手としか観ていない、彼女のミドルネームや誕生日も知らない大人たちと違って。純真無垢な子どもたちによってクレオは死産のショックから立ち直っていきますし、最後は明確にハッピーエンドで終わるのも心地よいです。それに輪をかけて重要なのがソフィア家も傷ついているということなんですよね。


映画の終盤でソフィアは夫のアントニオと離婚します。父親がいなくなることを告げられて、子供たちのショックは大きかったことでしょう。悲しい気持ちを紛らわそうと海辺で遊んでいます。ここでペペとソフィーがおぼれかけてしまい、クレオが助けに行くんですが、彼女泳げないんですよ。なのに無償の愛をもって助けに行く。救われたぺぺとソフィー、さらにはトーニョとパコ、ソフィアも合わさって6人で体を寄せ合うシーンは、アイキャッチにも使われているこの映画の最重要シーンです。ここで視覚的にだけではなく、精神面でも互いが互いを支えているんですよね。再生して、再生されて。無くてはならない存在になって。立場の違いも越えて支えあえるってめっちゃ尊くないですか…。推せる…








・最初のシーンとラストシーンの対比が尊い…


『ROMA』はもう全編通して尊かったんですけど、一番最高だなって思ったのが最初のシーンとラストシーンの対比なんですよね。


『ROMA』は石畳が画面に映されて幕を開けます。ここでキャストやスタッフの名前が表示されるんですが、波のような音がしているんですよね。ここ白黒だと波か石鹸水かの判断が付かなくて。まあ石鹸水だったんですけども。そして石鹸水に反射する空が映されて、その中を飛行機が飛んでいます。とても閉鎖的なオープニングでした。


一方で、これがラストシーンでは本物の空が映されているんですよ。雲ひとつ無い空を飛行機が横切っていく。オープニングとは対照的に開放的なエンディングです。私が思うにたぶんこれはクレオの心情の変化を表しているのではないかと。


閉鎖的なオープニングは所詮家政婦だから、雇われ人だからと塞ぎこんでいたクレオの心内を表現している。開放的なオープニングは紆余曲折を経てソフィア家と認め合えた、憑き物が落ちたクレオのさわやかな心情を表しているのではないかという仮説です。さらに裏づけとなりそうのが最初のシーンではクレオは下を向いていたのに対し、ラストシーンでは上を向いているということ。これを前向きになった彼女の心境の変化と捉えずしてどう捉えましょう。


さらに、作り物の石鹸水から本物の海水への変化はそのままクレオとソフィア家の関係が作り物から本物になったということを示唆しているとも考えられます。それに二つのシーンで象徴的なのがどちらにも飛行機が登場しているということなんですよ。


ここで考えたいのが飛行機が国境と国境を飛び越える存在であるということ。最初のシーンで飛行機の影は壁に隠れて見えなくなっていましたよね。これはソフィア家とクレオの間には壁があり、飛び越えられていないということのメタファーだと思います。また、クレオとフェルミンが観た映画では飛行機が墜落していましたよね。これもまた、壁を飛び越えられていないということを表していたと考えられます。


でも、最後のシーンで飛行機は自由に飛び去っています。もう言わなくても分かりますよね。ソフィア家とクレオの間にある壁なんて関係ないということです。雇用主と家政婦という壁を飛び越えて信頼し会える、支え合える関係に両者はなったのです。支えあうっていいですよね...。ハァ…尊い…。最高に尊いよ、この映画…。







以上で感想は終了となります。『ROMA/ローマ』はとにかく尊く、観終わった後優しい気持ちに慣れる素敵な映画です。おススメです。


お読みいただきありがとうございました。

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