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【小説】ロックバンドが止まらない(111)


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 突然知らされたショートランチの武道館公演に神原が悶々とした気持ちを抱えていても、スタジオでバンド練習をしていると時間はあっという間に過ぎ、ワンマンライブ当日を迎えていた。

 朝目を覚ましても、正直なところ神原の気分はあまり良いとは言えなかった。ワンマンライブに意気込んでいる部分は確かにあるものの、それでもショートランチに先を越されたという思いは棘のように刺さって、神原の心からは未だに抜けてはいなかった。

 家を出る前にギターを手に取って、今日演奏する曲を軽く浚う。指は澱みなく動き、喉の調子も良く、神原の気分は少しずつ持ち直してきていた。

 今日ライブをするライブハウスは、神原たちが今までで一番多く出演している、下北沢CLUB ANSWERだった。勝手を知っていることもあって、電車に乗っている間も神原はいくらか落ち着いていられる。

 下北沢駅に到着すると、既に園田たちは三人揃って待っていた。三人とも引き締まった表情の中に今日への期待が見え隠れて、ショートランチの武道館が決まった驚きを引きずっているのは自分だけのように、神原には思われる。平井たちから知らされていないのだろうか。

 それでも、神原は努めて平気なふりをして、四人で一緒にCLUB ANSWERへと向かう。例年よりも長く続いた梅雨はようやく終わって、太陽は溢れんばかりの日差しを浴びせかけていた。

 CLUB ANSWERに到着すると、見慣れたフロアの光景が神原の心をいくらかフラットにする。オーナーである黒島に一言挨拶をすると、神原たちはすぐにリハーサルをするためにステージに上がった。

 マイクの具合や音量のバランスを確認し、何度も立っているステージに神原は冷静さを取り戻していく。そして、神原たちはリリースされたばかりの「口づけしたい」の一番を演奏した。

 四人の演奏にはいい意味で特別なところはなくて、練習通りの演奏ができていることに、神原も明るい見通しを抱けた。肩に力が入っていなくて、これを維持できればライブの最後まで、体力は十分持ってくれるだろう。

 ステージを降りたとき、実際に一度演奏をしたこともあって、神原は思っていた以上に、自分がリラックスできていることを感じていた。ショートランチのことも、頭からこぼれ落ちたようだった。

 それでも、入場開始時間になって少しずつフロアから聞こえる話し声が耳に入ってくるようになると、神原には緊張がぶり返してしまう。

 今日を迎えるにあたって、八千代が言うにはチケットは前売り券の段階で、キャパシティの八割ほどが売れているらしい。当日券で来たり、逆に用事が入って来られなくなったり、少し増減はするだろうけれど、それでも神原たちにとっては、一番観客が入るワンマンライブになることは疑いようがない。

 スプリットツアーでそれ以上の観客の前でのライブを経験しているとはいえ、今日は全員が自分たちだけを目当てに来ていると思うと、神原の心臓の鼓動は速くなって収まらない。園田たちと少し言葉を交わしてみても、あまり落ち着かないほどだ。

 ライブが始まる前の今が緊張のピークで、一度ライブが始まってさえしまえば、意識は演奏に集中し、そういったことは考えてはいられなくなる。神原は早く演奏を始めたいと、思わずにはいられなかった。

 楽屋で開演を待っている時間が、神原に苦痛にも似た心地を抱かせていた。

 一分一秒が長く感じる中でも、着実に時間は過ぎていき、神原たちはスタッフに「そろそろスタンバイお願いします」と声をかけられる。舞台袖からはフロアは見えなかったけれど、それでも今までにないほど多くの観客が来ていることが、神原たちには感覚的に分かる。

 緊張を感じながらも今か今かと待っていると、開演時間ちょうどに客入れで流れていたBGMは止み、神原たちの登場SEが流れ出した。ステージだけが照明に照らされた空間で、リズムに合わせた手拍子が鳴り響いている。それは神原たちが今まで聴いたことがないほど大きく、今日のフロアの状況を改めて神原たちに教えた。

 そして、登場SEがサビに突入すると、神原たちは久倉を先頭にステージに姿を現した。一人一人に向けられた歓声が途切れなく続くなか、最後に登場した神原はギターを構えるとフロアを見回した。ステージからの照明に照らされて、観客の顔がはっきりと見える。最後列まで観客が入ったフロアは、ほとんど満員と言ってよかった。

 その光景に神原はライブが始まる前から感慨を覚えながらも、目はとある一点に向いてしまう。フロアの真ん中よりも少し上手側に、平井が立っていたのだ。神原は驚く。平井が来ることは、少なくとも自分は聞かされていない。胸には、武道館公演が決まったことを知らされた日の思いが蘇る。

 でも、平井一人に気を取られているわけにもいかないので、神原は園田たちの準備も完了したことを確認すると、右手を挙げた。登場SEはフェードアウトしていき、ライブハウスには一瞬の静寂が訪れる。

 それを切り裂いたのは、園田のベースのフレーズだった。その始まり方だけで、どの曲かは観客も分かったのだろう。フロアは小さくどよめいた。

 神原たちも演奏に合流すると、ライブハウスに一筋の風が吹いたように神原には感じられる。

 神原たちがこの日の一曲目に選んだのは『D』に収録されているなかでも、とりわけアップテンポで跳ねるようなリズムが印象的な曲だ。程よく歪んだギターの音色に、演奏しながらギアが入る。園田たちの演奏も、一曲目から波に乗っている。

 ライブの幕開けにこの曲を選んだ神原たちの判断は功を奏したようで、フロアにはじわじわとではなく、突き上げるような熱量が早くも生まれていた。サビでは多くの観客が、手を振り上げてくれている。歌詞を口ずさんでいるのか、口が動いている観客も何人も見え、神原はここが紛れもないホームだと実感していた。

 満員に入った観客は、全員が自分たちの演奏に期待してくれている。そのことはプレッシャーでもあったけれど、それでも神原たちの演奏を強く後押しもしていた。

 神原たちはそれからも、ライブMCもそこそこに曲を重ねる。メジャーデビューしてから少なくない数のCDをリリースしていることもあって、神原たちはこの日初めてメジャーデビュー以後の曲でセットリストを組めていた。

 そして、それは観客にも十二分に浸透していて、どの曲でも一定の水準以上の反応は必ずあった。軽快なリズムに踊れる曲には身体を揺らしたりして存分に乗ってくれたし、落ち着いたテンポの曲やバラードのときはじっと聴き入ってくれていた。

 その反応は神原たちにとって理想的と言ってもよく、ライブが進むごとに確かなエネルギーを貰える。

 駆け抜けるように進んでいくライブ。神原も歌や演奏に集中しながらも、やはりどうしても時折平井のことは視界に入ってしまう。

 平井は腕を組んで見定めたりすることは一切なく、ごく自然体で神原たちのライブを楽しんでいた。それは周囲の観客に溶け込んでいて、神原もそこまで強く意識せずに、演奏を続けられる。

 ステージに立っていると、ショートランチと比較してどうだということは、さほど考えずにいられた。

 ライブ本編で一七曲、さらにアンコールでもう二曲を披露して、この日の神原たちのワンマンライブは幕を閉じていた。アンコールも終えた神原が、楽屋に戻ってきて携帯電話を確認すると、開演してから二時間も経っていなかった。

 それでも神原には確かな、それでいて心地よい疲労感がある。ライブMCも本編の後半でメンバー紹介をしたくらいで、あとはずっと曲を演奏していたから、時間がぎゅっと濃縮された感覚だ。演奏中は無我夢中で、気づいたら終わっていたという感じさえ神原にはある。

 きっとそれは、自分たちの演奏がうまくいったからでもあり、フロアに生まれた熱が最後まで途切れなかったおかげでもあるのだろう。多くの観客の目と耳が自分たちの演奏に釘付けになっていて、小さくない満足感を抱かせることに成功したと神原は推測する。

 実際にアンコール最後の曲を終えたときの拍手は、CLUB ANSWERのキャパシティいっぱいよりも大きく、神原たちの耳には聞こえていた。

「それでは、皆さん! 今日のライブもお疲れ様でした! 乾杯!」

 打ち上げの席に着いて、神原がそう音頭を取ると二つ並んだテーブルからは「乾杯」という掛け声とともに、ジョッキ同士を突き合わせる、小気味のいい音がいくつも生まれる。神原も同じテーブルに座っていた園田や、CLUB ANSWERのスタッフとともにジョッキを突き合わせて、今日のライブの成功を祝う。

 ビールに口をつけると苦味を伴った強烈な喉ごしが心地よく、「今日もよくやった」と自分たちを労わっているかのようだった。

 神原たちは、まず今日のライブについて言葉を交わした。もちろん反省点はあるものの、それでも会話には良かったことの方がずっと多く並んで、この日神原たちが得た手ごたえを明確に表す。園田やスタッフたちも、ほんわかした表情をしている。

 高揚感に当てられて神原はビールもぐいぐい進み、打ち上げが始まってから二〇分も経たないうちに、一杯目の中ジョッキを空にしていた。酔いが回っていく感覚が爽快で、気分も大らかになっていく。

 そんななかで神原の目は、二杯目の中ジョッキを頼んで店員が戻ってきたタイミングで開いた、入り口に向いた。入ってきた人物を見て、神原は思わず口を開けてしまう。

 打ち上げ先の居酒屋にやってきたのは、平井だった。店員と短い言葉を交わすとまっすぐ、今は神原と園田の二人しかいないテーブルへとやってくる。既に呑んでいるのか、頬が少し赤い。

「神原君、瀬奈ちゃん、お疲れー」と上機嫌で平井は声をかけてきたけれど、神原は突然の事態にまだ理解が追いついていなかった。


(続く)


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