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スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(169)


前回:スポットライトが見えずとも~上総台高校アクター部がいる!~(168)





「似鳥くん、逃げないでよ」

 抑揚のない声に、晴明の動きは止められてしまう。

 近づいてくる男子学生に、桜子は「誰、ハル。この人知り合い?」と言っていたが、晴明はうまく答えられない。男子学生も桜子の存在が目にも入っていないように、一直線に晴明のもとへ向かってくる。

 辛うじて視線を上げた晴明の双眸は、冷たい目をしている天ヶ瀬の姿をはっきりと捉えた。

「ど、どうしたの……、天ヶ瀬くん……。学校はいいの……?」

 晴明が口にした名前に、桜子は合点がいったような表情を見せた。だけれど、天ヶ瀬はそんなことは全く気にせず、ただただ告げる。

「別にいいよ。一日ぐらい。それよりも今日は、似鳥くんに訊きたいことがあって来たんだ」

「訊きたいこと……?」晴明は訊き返していたが、天ヶ瀬の用事はとうに分かっていた。それでも、精一杯心をガードする。

 でも、天ヶ瀬の言葉はそんな晴明の薄っぺらい防御を簡単に貫通した。

「宮島さんから聞いたよ。どうして日芸に行くのやめたの?」

 その言葉は、晴明の想像と一言一句違っていなかった。桜子が「えっ、ハル日芸行くんじゃなかったの?」と驚いた声を出している。

 だけれど、晴明はそのどちらにも満足のいく答えを口にできなかった。ただ俯いているだけで察してほしいと、甘ったれたことを思っていた。

「今度の、秋のクラシック音楽祭の出演もキャンセルしたんでしょ? 似鳥くん、いったいどうしたの?」

 続けて聞いてくる天ヶ瀬に、晴明は少し落胆する。心のうちを一〇〇パーセント察してくれなんて、どだい無理な話だった。分かってもらうためには、言葉にするしかない。

「……ピアノは、もう弾きたくない」

 ぼそりとこぼした晴明に、天ヶ瀬だけではなく桜子も戸惑ったような表情を見せていた。

 ひっきりなしに校門を行き交う学生たち。ほとんどすべての目が、立ち止まっている晴明たちに一度は向いていた。

「弾きたくないってどういうこと……? もしかして波多野さんが亡くなったのと、何か関係があったりするの……?」

 信じられないと言うように尋ねてくる天ヶ瀬の口調が、晴明の怒りのツボを刺激した。いてもたってもいられず、言葉は強くなる。

「そうだよ! 何で分かんないんだよ! ずっと僕を見てくれた波多野先生を失って、僕はもうピアノを弾くのが嫌になったんだよ! 今は弾こうとしても弾けないだよ! わざわざこんなこと言わせないでよ!」

 声を荒らげた晴明に、周囲は一瞬静まり返る。ヒソヒソ話が全部自分たちのことを話しているように、晴明には感じられる。

「ごめん。波多野さんが似鳥くんにとって、どれだけ大きい存在なのか、考えていた以上だった」

「いいよ、謝らなくて! どうせ天ヶ瀬くんには僕の悲しみなんて分かんないんだよ! だって、天ヶ瀬くんは波多野先生には、数えるほどしか会ったことないんだから!」

 晴明が感情に任せて言うと、天ヶ瀬は明確に表情を変えた。言ってはいけないことを言ってしまったと晴明は気づいたけれど、一度口にした言葉は取り消せるはずもなかった。

「どうしてそういうこと言うんだよ! 僕だってもう波多野さんのピアノが弾けないって思うと、悲しくてたまらないのに! 悲しんでるのは似鳥くんだけじゃないんだよ!」

 天ヶ瀬の態度の変わりようはまるで別人みたいで、今度は晴明が「ごめん」と謝る番になる。

 それでも、一度ついてしまった天ヶ瀬の怒りの火は、そう簡単には吹き消せなかった。自分を睨んでくるような目に、晴明は肩身が狭くなるのを感じる。

「波多野さんを失って、似鳥くんがピアノを弾きたくないって思うのは分かるよ! 僕ですら聞いたその日は、ピアノに向かう気が起きなかったから。でも、僕は今はまたピアノを弾いてる。今年の学生コンだって本選出場を決めた。だから、似鳥くんがそうやっていつまでも塞ぎこんでいるのが、僕には腹立たしくてたまらないよ!」

 天ヶ瀬がいくら自分を責めたてていても、晴明は甘んじて聞き入れるしかない。それくらいのことを自分がしている自覚があったからだ。

 校門は晴明たちをよそに、何事もないように学生たちを迎え入れている。始業時間が近づいていることを告げる予鈴は、まだ鳴ってくれない。

「なんで辞められんだよ! 僕たちにはピアノしかなかったはずじゃんか! ちゃんと才能があって、あれだけの時間と労力をかけたピアノを、どうして辞めることができるんだよ! 言っとくけど、何があっても僕はピアノを辞めないから! ピアノを続けて、いつか世界で活躍する演奏家になって、似鳥くんに自分も続けてればよかったって後悔させてやるから!」

 断固として言い切る天ヶ瀬に、晴明はぐうの音も出なかった。今の自分からピアノを引いたら、何が残るのか分からなかった。

 桜子は口を挟まずに、ただ晴明を心配そうに見ている。どんな慰めも通用しないと、晴明は思った。

「じゃあ、そういうことだから! 君と僕はもうこれっきりだから! 二度と僕の前に顔を見せないでよ!」

 最後にそう言い放って、天ヶ瀬は校門から離れていった。速い足取りに怒りが滲んでいる。

 誰もが動きを止めない校門前で、晴明たちだけが動けずにいた。桜子が「ハル、大丈夫?」と声をかけてくる。

 大丈夫なことなんて一つもない。心はズタボロに傷ついている。

 それでも、晴明は予鈴を聴くと、何も言わずに校舎へと歩き出した。何を言っても、声が震えてしまいそうだった。

 桜子が後から心配そうについてくる。自分の演奏家人生は終わったのだと、晴明はこのときはっきりと思った。

 天ヶ瀬が言い放った言葉は、授業中も休み時間も晴明の頭に残り続けた。自分がしていることを改めて突き付けられて、晴明はおぞましさを感じていた。

 何を見ても目を滑っていくし、何を聞いても耳を通り抜けていく。本当は今すぐ帰って自分の部屋に引きこもりたかったが、それでも晴明は学校に留まり続けていた。

 学校という他者がいる空間に身を置いていなければ、自分には価値がないとすら思っていた。

「ハル、本当に大丈夫?」

 昼休み。桜子は晴明の側まで給食を持ってやってきた。

 きっと天ヶ瀬とのやりとりを聞いていた人間は、他にもいるだろう。だけれど、晴明のもとにまでやってきたのは、やはり桜子だけだった。

「大丈夫って何がだよ」

「今朝のこと。ごめんね。私、ハルがそんな状態になってるなんて、全く気づかなかった。昨日もピアノの話出しちゃって。嫌だったよね?」

「なんでお前が謝るんだよ。悪いのは全部俺なんだから」

「ううん。ハルは何にも悪くない。だってこれは不可逆的なことがきっかけなんでしょ? ハルももちろん波多野さんも、誰も悪くないんだよ」

 理解を示すように言う桜子にも、晴明は腹を立てることはなかった。他の誰にも言われたくないことでも、桜子に言われると、なぜか素直に受け入れることができた。

 今、二人はまだ給食に手をつけられていない。自分たちの周囲に漂っているのは、食事をするような空気ではないと晴明は感じていた。

「なぁ、サク。悪ぃな」

「だから謝らなくていいって。ハルは悪いこと一個もしてないんだから」

「そうじゃなくてさ、ほらお前、前言っただろ? お前が主演の映画に、俺が音楽だったりテーマソングで参加するみたいなこと。その夢、もう果たせなくなっちまった。心から申し訳ないと思ってる」

「確かにそれは残念だけど、本当は嫌なのに無理してピアノを続けて、ハルが心を病んだりすんのが私は一番怖いよ。マジでやりたくないならやんないで。自分の心と身体の健康を守ってよ」

 これまで相談した誰もが、明言の有無にかかわらず、晴明がピアノを続けることを望んでいたから、桜子の言葉は晴明の胸の奥まで届いた。本当に自分のことを考えてくれているんだと感じる。

 小さく頷いた晴明に、桜子は穏やかな顔をしてみせた。普段通りの表情が、ほんの少しでも晴明の心を落ち着ける。

「ねぇ、ハル。よかったら私と同じ高校行かない?」

 桜子からしてみれば、色々考えた末の提案だったのだろう。

 だけれど、晴明には突拍子もないように感じて、思わず訊き返してしまう。

「だから、高校だよ、高校。えっ、もしかしてハルって、もう行きたい高校決まってたりすんの?」

「いや、まだ何にも考えてねぇけど……。えっ、どうしてそういう話になんだよ」

「だってさ、もうそろそろ高校決めないとヤバいじゃん。ほら、受験勉強とかさ色々あるでしょ」

「それはそうだけど……」

「今から探すのもけっこう大変じゃん。だったらさ、私と一緒の高校行こうよ。電車で一駅ぐらいだから、ここからもそんな遠くないよ」

 ぐいぐい話を進める桜子に、晴明は若干戸惑ってしまう。

 言うまでもなく、高校選びは一〇代の貴重な三年間を左右する、重大な選択だ。それをここで決めていいとは、晴明には思えなかった。

「あのさ、参考までに聞いとくけど、お前はどこの高校行こうとしてんだよ」

「上総台ってとこ。部活で仲良かった先輩がそこに通ってるから、私も行きたいなって思ってるんだ」

「まあ候補の一つだけどね」。桜子は最後にそう付け加えていたが、口ぶりからその上総台という高校一本に絞っていることが、晴明には察せられた。

 晴明は中学三年生なのに、この辺りの高校事情には少しも詳しくなかった。進学先が決まっていたから、深く調べずにいたのだ。

 だけれど、それが白紙に戻った今、桜子の提案は晴明にとっては少し魅力的に映る。正直に言えば、桜子がいないなかで自分が人間関係をうまく結べるか、自信がなかった。

「そっか。まあ考えてはおくよ」

「本当? 上総台ちょっと偏差値高めだけど、大丈夫?」

「ま、まあそれも含めて考えてはみるよ」

 晴明がそう答えると、桜子は安心したように一つ息を吐いていた。「ありがと。さ、ご飯食べよ」と、給食に箸をつけ始めている。

 まだ何も解決していないのにと晴明は思ったが、今はうだうだ考えていても仕方がないだろう。

 同じように箸をつける。口にしたアジフライの身が柔らかくて、少しだけ心が絆された。


(続く)


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