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【ネタバレあり】映画『志乃ちゃんは自分の名前が言えない』感想【私たちは自分の名前が言えるのか】
こんばんは。これです。
先日、私は映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」を観に行っていました。当初は目に求めていなかったこの映画。しかし、吃音を持つ主人公だということで気になり、長野で上映するのを待って観に行きました。結果、予想以上に素晴らしい映画でした。思わず涙してしまうくらいに。
なので今回のnoteは映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」の感想になります。拙い文章ですがお付き合いいただけると幸いです。ちなみに原作は未読ですので、そのことも踏まえてよろしくお願いいたします。
~あらすじ~
高校一年生の志乃は上手く言葉を話せないことで周囲と馴染めずにいた。ひとりぼっちの学生生活を送るなか、ひょんなことから同級生の加代と友達になる。
音楽好きなのに音痴の加代は、思いがけず聴いた志乃の歌声に心を奪われバンドに誘う。
文化祭に向けて猛練習が始まった。そこに、志乃をからかった同級生の男子、菊池が参加することになり・・・。
(映画「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」公式HPより引用)
※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。
・青春の光を描く前半
まず、一言でいうとこの映画は「志乃、加代、菊池が自分のアイデンティティを獲得する」までのお話です。一般的に青年期、とくに高校時代はこうしたアイデンティティの獲得を行う時期といわれています。何者かになりたいという憧れにある種の折り合いをつけ、自分は自分であって他の誰でもないという自己同一性を育てていき、獲得する時代が高校時代というものなのです。
そのアイデンティティの獲得は一筋縄ではいきません。一般的に青春と呼ばれる高校時代はいいことばかりではなく辛いことや苦しいことも、あるいはいいこと以上に起こります。自分の持っていないものばかりに目がつき、持っている人を羨ましがってばかりです。それを埋め合わせるためにもがき苦しむのが高校時代だと私は考えています。そして「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」はそんな高校時代の光と影、酸いと甘い、楽しさと苦しさが全てつまっていました。
この映画の主人公である大島志乃は、最初の言葉に詰まる難発性吃音を持っています。自己紹介の際に自分の名前が上手く言えず、「志乃・大島です」と挨拶してしまいクラスの周囲からは笑われてしまいます。この志乃を演じたのが南沙良さん。南さんの吃音はとてもリアルで、志乃のキャラクター像をグッと引き立てていました。
志乃は吃音さえなければもっとうまく話せるようになるのにと考え、自分の吃音をコンプレックスに感じています。劇中で志乃が発した言葉で、ラストシーンの次に印象的だったのが、将来何になりたいかと聞かれ、「普通の高校生になりたい」と答えたシーン。ここに志乃のコンプレックスが凝縮されています。
実を言うと私も高校時代は誰とも話せず友達も一人もいませんでした。志乃のような吃音は持っていませんでしたが、私も滑舌が悪く、それに伴い自分の話し声を気持ち悪いと感じていたため、コミュニケーションを取ることなく自分の殻に閉じこもっていました。なので、志乃が校舎の裏で一人お弁当食べるシーンにはとても共感をし、志乃と自分を同一視することができました。志乃と同じように高校時代の私も、友達と話しながら帰る同級生の姿を見て「普通の高校生になりたい」と思ったものです。”普通”が何を指すのかなんて誰にも分からないのに。
映画の話に戻ります。志乃はいつものように校舎の裏でお弁当を食べていたある日、同級生の岡崎加代が目の前を通るのを見かけます。加代を追う志乃。加代は汚い階段に座り、人知れず好きな音楽を聴いて下手な歌を歌っていました。加代は自分が歌が下手だという自覚があって、誰にも聞かれたくなかったから、誰もいない校舎裏の階段を選んで座っていたわけで、自分が音痴だということをコンプレックスに感じていました。
この加代を演じていたのは蒔田彩珠さん。気が強いように見えて繊細なところもあるという加代を淡々と、時に感情を表に出しながら演じていました。少し厳しい口調の中にも志乃を大切に思う気持ちが感じられて、とてもよかったと思います。
そして、二人は一緒にバンドを組むようになります。志乃が歌が上手いことを知った加代は「二人でならやれると思ったから」と志乃を誘います。このあたり実に青春っぽい。そして、志乃はそれを快諾します。同世代に認められる経験が初めてで嬉しかったのでしょう。志乃が歌って加代がギターを弾くガールズフォークデュオ「しのかよ」が誕生しました。
二人は練習を積んでいくうちに自信が出てきて、加代は志乃に「一緒に文化祭出ない?」と提案します。志乃は当然断りますが、加代の熱意に押されて文化祭に出ることを決意します。このバンドを組んで文化祭に出るっていうのも実に青春ですよね。この根拠のない自信と「何者にもなれる」という万能感は青春時代の特権です。大人になると薄れていくのが悲しい。
文化祭に向けて二人はお客さんの前で経験を積もうと路上ライブを敢行します。こんなこと青春の熱に当てられていなきゃとてもできない行為ですよ。外で思うようにギターが弾けない加代。志乃はもう帰ろうと言いますが、加代は「初めて部屋から出られたんだから」と演奏を続けます。加代を部屋から出してくれたのは自分のギターに合わせて歌ってくれる志乃の存在があったからです。私は高校時代自分の殻にこもりっきりだったので「こういう外に連れ出してくれる存在が欲しかったなあ」と感じました。自分から差し伸べられた手を突っぱねておいて何言ってんだって感じですが。
ここで歌うシーンがもう素晴らしくて。志乃が実にいい笑顔で歌うんですね。ギターの演奏中に加代もそれを見て笑いますし、二人の笑顔が眩しくて心が浄化されていくようでした。
そして歌に合わせて二人が仲良くしている様子がスクリーンにダイジェストで映し出されます。青春時代の象徴である自転車の二人乗り。その二人ともが笑顔でそのバックには海が輝いていました。いつもだったら「何やってんだコイツら」とジェラシーを覚えるようなシーンですが、この映画ではそんなものは不思議と感じられません。というのも志乃も加代もわかりやすくコンプレックスを見せてくれていたので、はしゃいでるシーンを「ああよかったなぁ」という暖かい気持ちで観ることができました。
さらにはここでの音楽の使い方も抜群にいいんです。「あの素晴らしい愛をもう一度」は少し古臭さを感じる選曲でしたが、二人の楽しそうな様子に不思議とマッチしていました。ミッシェルガンエレファントの「世界の終わり」は私の好きな曲で、あまり泣けるような曲ではないんですが、南さんの高音で透き通るような歌声で歌われると本家とは全く違う印象があって、初めて「世界の終わり」で泣きそうになりました。それと南さんの「翼をください」もよかったなぁ。なんかすごく上手いってわけじゃないんですけど、胸にくるものがあるんですよね。「翼をください」自体が泣ける曲なのでここはヤバかった。あとはブルーハーツの「青空」は言わずもがなですね。青年期のモヤモヤや衝動を歌った曲で「青春映画」であるこの映画にはうってつけの選曲でした。
・青春の影を描く後半
※ここからの内容はさらに映画のネタバレを含みます。ラストの核心部分まで書いてしまうので、未見の方は十分にご注意ください。
この映画は多くの青春映画と同じように前半部分で青春の楽しい部分、光の部分を見せてきます。すごくキラキラ輝いていてこれだけでも満足度はかなり高かったのですが、光があれば影もある。後半はある出来事をきっかけに志乃と加代、二人が築いた関係が壊れていきます。
ある日、しのかよは思い切って駅前でライブを行いました。そこを志乃をおちょくっていた男子、菊地強に見られてしまいます。この菊地を演じたのが荻原利久さん。菊池のうざったさとその奥に潜む過去にいじめられていたゆえの悲しさを見事に演じ切っていました。
翌日、菊地は教室で二人を茶化しますが、加代のビンタもあり反省します。そして菊地は「自分も『しのかよ』に入れてほしい」という突飛な提案をします。二人は一度は拒絶しますが、最終的に菊地の「しのかよ」入りを認めます。
菊地が「しのかよ」入りし、加代と菊地は親しくなっていきます。二人が親しくなることで、自分の加代との関係性が壊れることを恐れた志乃は二人から逃げ出してしまいます。加代が追いかけますが、志乃は砂浜に「しのかよ、もうやめる」と書くだけで何も話しません。そして志乃は学校に行かなくなってしまいます。
ある日、加代が志乃のもとを訪ねてきます。加代は志乃に「もう一度二人で「しのかよ」やろ」と話しかけますが、志乃からの反応はありません。そんな志乃に加代は「話してくれなきゃ分かんないよ」と重い言葉を投げかけます。その言葉を受け、逃げ出してくなった志乃は部屋から出て夜道を歩き、加代は等間隔でそれについていきます。志乃は海岸沿いのバス沿いのベンチに座り込み加代にどもりながらも「私、こんなつらい思い、初めて、こんなことになるなら、最初から、一人で...」と吐露します。加代は涙を流す志乃に朝まで寄り添い、そして「じゃあね、バイバイ」と志乃と別れます。
青春時代は発達に必要なたくさんのものを得ますが、それと同じくらいたくさんのものを失う時期です。志乃は加代という友達を得ましたが、その友情を自ら手放してしまいます。これは自分が話して思いを伝えなかったためで志乃はますます自分を嫌悪したことでしょう。青春時代の影の部分、思い通りの自分に慣れないという自己嫌悪が志乃に襲い掛かりますが、志乃はそれに立ち向かわず相変わらず逃げてばかりいます。
そんな志乃に菊地はこう投げかけます。「お前だせぇよ」と。「私なんてどこにもいませんみたいなふりして」と。菊地はかつていじめられており、友達がいませんでしたが、逃げずに陽キャになる努力をしていました。そんな菊地から見て、逃げてばかりいる志乃の姿はさぞかし腹立たしく映ったのでしょう。しかし、志乃は菊地の心からの言葉からも逃げてしまいます。
この菊地の言葉は私にも刺さりましたね。私も喋らずにやり過ごしていて逃げてばかりいるので。でも自分はそこにいるんですよね。地球の、小さな日本の、さらに小さなほんの片隅にでも確かに存在しているんです。私は自分のことを透明人間みたいな存在だと思っているんですが、おぼろげながらもちゃんと輪郭を保っていて、ちっぽけながらも確かに二本の足で立っている。そのことを菊地の言葉は思い出させてくれました。
物語は最終盤。文化祭当日を迎えます。加代は志乃にも菊地にも頼らず一人で、「しのかよ」の名前を背負ってステージに立つことになりました。加代は志乃と一緒に作るはずだった曲を、志乃と一緒に歌うはずだった曲を一人で歌います。その曲の名は「魔法」。
魔法をください 魔法をください
みんなと同じに喋れる魔法
みんなと同じに歌える魔法
言うまでもないことですが、この歌詞には加代と志乃の「自分だけど自分ではない何者かになりたい」という気持ちが現れています。みんなと同じになれる魔法があったらどんなに楽だろうか。自分を受け入れられない気持ちが一番では歌われています。
しかし、これがサビでは
魔法はいらない 魔法はいらない
みんなと同じに喋れる魔法
みんなと同じに歌える魔法
となります。ここで、加代は自分は他の何者でもない、自分は自分だという自己同一性、アイデンティティを獲得しました。下手ながらも自分を認め、魔法はいらないと歌う加代。その健気な姿に涙がこぼれます。しかし、志乃は校舎の裏でうずくまってばかり。その対比がきつくて胸を締め付けられる思いです。
が、志乃は曲が終わるにつれて自分で演奏会場の体育館に向けて歩き出します。体育館に入り加代の演奏を聴く志乃。加代の演奏は終わり、嘲笑の中で菊地が一人拍手をします。そして司会がまとめて次の人に行こうとした瞬間、志乃がどもりながらも叫びます。
私は自分の名前が言えない!!
どうして!知らないよそんなこと!!
涙ながらに志乃は悔しいと続けます。両眼から涙は溢れ出て、鼻水も勢い良く垂れて顔はぐちゃぐちゃです。
こわいこわいこわいこわい
だから逃げた
誰にも喋らなければバカにされない
逃げて逃げて...でも追いかけてくる。私が追いかけてくる
私をバカにしてるのは、私を笑ってるのは、私を恥ずかしいと思ってるのは、全部私だから
そしてどもりながらも志乃はこう口にします。
私は大島志乃だ
これからも、これがずっと私なんだ。
志乃は自分自身を受け入れました。吃音のある自分も、逃げる自分も、自分のことを嫌だと思う自分もすべて自分自身なんだ。志乃も加代と同じように自己同一性、アイデンティティを獲得したのです。
この志乃の独白はこの映画一番の盛り上がり所でものすごくエモーショナルなものでした。当然私も泣いてます。私も逃げて逃げて逃げ続けて、自分のことを嫌って嫌って、嫌ってる自分も嫌って、何者かになりたいと思い続けながら生きていますから。志乃も途中まではそんな存在でした。しかし加代や菊地との出会いや別れ、楽しいことや辛いことや悲しいことを経験していくなかで、他者との関わりの中で自分を見つめ直し、アイデンティティを獲得しました。最後の「私は大島志乃だ」は、自分が他の何者でもない自分であることを認めた志乃の決意です。
・まとめ(?)
思えば、「自分の名前が言える」人は世の中にどれくらいいるのでしょうか。自分のいいところも悪いところもありのまま認め、他の誰でもない「私は私だ」と胸を張って言える人は世の中にどれくらいいるのでしょうか。他の人と比べてばかりで、自分のいいところには目を向けず、悪いところばかり見てしまう。そして「自分はなんてダメなんだ」と自己嫌悪を覚える人たち。この映画はまさにそんな人たちのための映画です。
映画の中の志乃や加代、菊池と同じように私たちも日々もがき苦しんでいます。コンプレックスのない人間なんてなかなかいません。コンプレックスを隠したくて、SNSなどでキラキラした自分を演じてしまうのがブームとなっている時代です。でもコンプレックスも自分の一部。自分を許してあげられるのは自分だけ。この映画を観た後には「ほかの誰でもない自分」が愛おしく感じることでしょう。誰もが通った青春時代の自己嫌悪、何者かになりたいという気持ち、そしてそれを受け入れることという普遍的なテーマを「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」は110分の中で見事に描き切っていました。
文化祭が終わった後、菊池は陽キャぶって無理していたことをやめ、等身大の自分を受け入れて一人で校舎の隅でご飯を食べます。加代は部屋ではなく学校の屋上という人に見られる場所で、一人でギターを弾いて曲を作っています。そして志乃は自分の席に座り一人でご飯を食べています。三者三様、自分のありのままの姿で過ごしています。自分を受け入れアイデンティティを獲得した3人なら大丈夫でしょう。これからの3人の前向きな未来を感じさせる素晴らしいラストです。
最後に、私はこの映画を観て「こんな青春時代を過ごしてみたかった」と思いました。寄り添ってくれる友達がいて、嬉しいことも悲しいこともたくさんあって、人とのかかわりの中でアイデンティティを獲得する。この映画の中で描かれていた青春はキラキラしたばかりではないですが、それでも私が贈れなかった青春が「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」の中にはありました。私は自分が嫌いで、何者かになりたくて、24にもなってまだアイデンティティの獲得に至ってませんが、これからは少し自分を許しながら生きていきたいと思います。いつかは自分の名前を誇りを持って言えるように。どうしようもない私をこんな前向きな気持ちにさせてくれたこの映画との出会いに感謝します。
以上で感想は終了となります。「志乃ちゃんは自分の名前が言えない」本当に素晴らしい映画です。多くの人はきっと何か感じるものがあると思うので、上映館数は少ないですが、機会があったら是非観に行ってみてください。
お読みいただきありがとうございました。