【ネタバレあり】映画『累』感想【優越感は劣等感、劣等感は優越感】
もうすっかり日も短くなってきていよいよ秋の訪れを感じますね。こんにちは。これです。
今回のnoteは映画「累」の感想となります。この映画については原作は未読で、もともと観るつもりもあまりなかったですし、主演の土屋太鳳さんと芳根京子さんにも、朝ドラの人という印象しかありませんでした。それでも観に行こうと思ったのは評判がよさげだったからです。観てみて実際、その評判のよさもうなずける傑作でした。
では、感想を始めます。拙い文章ですが、何卒よろしくお願いいたします。
~あらすじ~
幼いころより自分の醜い容姿に劣等感を抱いてきた女・累。今はなき伝説の女優・淵透世を母に持ち、母親ゆずりの天才的な演技力を持ちながらも、母とは似ても似つかぬ容姿に周囲からも孤立して生きてきた。そんな彼女に母が唯一残した1本の口紅。それは、キスした相手の<顔>を奪い取ることができる不思議な力を秘めていた―。
ある日、累の前に、母を知る一人の男・元舞台演出家の羽生田が現れる。累は羽生田の紹介で圧倒的な"美"を持つ女・二ナに出会う。ニナはその美しい容姿に恵まれながらも、ある秘密を抱え、舞台女優として花開かずにいた。
母ゆずりの”天才的な演技力”を持つ累と、”恵まれた美しさ”を持つニナ。運命に導かれるように出会い、”美貌”と”才能”という、お互いの欲望が一致した二人は、口紅の力を使って顔を入れ替える決断をする。
累の”演技力”と二ナの”美しさ”。どちらも兼ね備えた”完璧な女優”丹沢ニナは、一躍脚光を浴び始め、二人の欲求は満たされていく。しかし、累と二ナ、二人がともに恋に落ちた新進気鋭の演出家・烏合が手掛ける大作舞台への出演が決まり、それぞれの欲望と嫉妬心が抑えられなくなっていく―。
(映画「累-かさね-」公式HPより引用)
※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。
・役者について
この映画の魅力は何といっても土屋さんと芳根さんのダブル主演にあると思います。土屋さんは圧倒的な美を持つ女優"ニナ"を、芳根さんは天性の演技力を持つ醜い"累(かさね)"(別にそんな醜くなかったけど)を演じていました。累が持つ口紅で二人は顔を入れ替え、ニナの美に累の演技力を併せ持った女優"丹沢ニナ"を作り出していました。入れ替わったときに土屋さんは累を、芳根さんは二ナを演じなくてはならず、一人で二役を演じながら、そのまた、二人で一役を演じるという複雑な状況を二人は見事に演じ切っていました。
ニナは圧倒的な美を持ちながら持病で舞台女優としてはなかなか活躍できないという状況に置かれていました。周囲がうらやむものを持っていながら、それをなかなか生かせない悔しさややりきれなさ、そこから来る歪んだ自尊心から、他人を見下して優越感を得ようとする二ナ。それは序盤の累と初対面したときの偉そうな態度や、台本を床に投げつけて拾わせようとする仕草から存分に表れています。そんな二ナをベースとして演じていたのは土屋さんでしたが、自分を大きく見せるために明るく振舞う姿や、支配している累に対する攻撃的な態度がよかったです。
一方の累。こちらは大女優の母親譲りの天性の演技力を持ちながら、その醜い用紙のためイジメられていたというキャラクターでした。いじめられていた累は劣等感の塊で、自分に自信が持てない状態でした。そんな累をベースで演じたのが芳根さん。序盤のオドオドした様子と演技に没入することで生まれる解放感とのギャップ、中盤以降の自信を得た様子とそれでも消えない劣等感を、感情を出す出さないのメリハリをつけた演技で表現していたように思います。
累と二ナの二人は累が持っている口紅を塗ってキスをすることで顔を入れ替えます。そのときに二人の役柄も入れ替わり、累を土屋さんが、ニナを芳根さんが演じることになります。土屋さん演じる累は芳根さん演じる累の自信のなさと劣等感を、芳根さん演じるニナは土屋さん演じるニナの自尊心と優越感をそのまま受け継いでおり、顔と一緒に魂まで入れ替わってしまったような印象を強く受けました。本当にキャラクターが顔と一緒に入れ替わったようで、監督等を含めすごい話し合いをして練り上げたキャラクターであることを窺わせます。
脇を固める俳優さんたちも豪華です。烏合零太役の横山裕さんはバラエティ番組では想像もできないようなセクシーな姿を見せ、羽生田釿互役の浅野忠信さんは流石の貫禄で話をグイグイ動かしていき、淵透世役の檀れいさんはその妖艶さと纏っているオーラで作品を引き締めていました。こうした実力派俳優の方々の確かな演技が、主演の土屋さんと芳根さんの演技をより盛り立てるという相乗効果を生んでおり、迫力のある演技に私は圧倒されっぱなしでした。
・優越感と劣等感
ここで「累」で二ナと累が対峙したシーンをいくつか振り返ってみたいと思います。キーになるのはこの映画のテーマでもある「優越感」と「劣等感」です。それぞれ大雑把に意味を確認しておくと、優越感は「自分が他人よりすぐれているという感情」のことで、劣等感は「自分が他人より劣っているという感情」のことです。これらは一見すると反対の概念のようにも思えますが、どちらも他者との関係性の中から生まれてくるものだということは一致しており、互いに関連性がありますが、そのことについてはまた後で。
まず、ニナと累が初対面をするシーンから。ここではまず累が上から二ナの演技を見ています。このときの累の心情については、羽生田が「内心では笑ってたんだろ?自分ならもっとうまくできるって」と代弁しており、累は二ナに対して自分より優れているという感情、優越感を抱いています。
その後ステージに立つ累。「こんな醜い女が私の代わり?」と累を押し倒します。ここで二ナは累を上から見ており、強い口調でなじるなど上から目線です。対する累は二ナを下から見上げており、「教えてあげる。劣等感ってやつを」と口紅を塗って二ナにキスすることで顔を入れ替えます。ここで注目したいのが二人の立ち位置。優越感を抱く者は上から見下し、劣等感を抱く者は下から見上げています。見下す見上げるといった心情がそのまま二人の立ち位置にも表れています。
累のモデルについては、調べてみるとどうやら歌舞伎の一系統に"累物(かさねもの)"と呼ばれるものがあるらしく、そのもとになった「累伝説」がモチーフになっていると思われます。「累伝説」の累は容貌が醜いだけでなく、心までねじれた性悪の嫉妬深い女性で、殺された夫の後妻に憑りついては呪い殺すというキャラクターです。ここからも累の強烈な劣等感が覗えますね。
その後も見下す=優越感を持つニナと、見上げる=劣等感を持つニナの立ち位置は変わることはありません。この見下す見上げるの構図で特に印象的なのが中盤の駐車場でのシーン。ニナの顔で演じることによって自分に自信が出てきて、徐々に優越感を覚えていく累でしたが、ニナはそれを許しません。ハイヒールで踏んづけて「偽物風情が調子に乗ってんじゃないわよ」と一喝します。このときの土屋さんの詰りっぷりが実によかった。累が這い上がってきながらも、まだまだ自分が上に立っていることを踏んづけるという行為によって誇示するニナの切羽詰まった心情が現れた名シーンでした。
で、なんでニナがこういう行動に出たのかっていうと、自分と累の立場関係が逆転してしまう危機感とともに、「補償」というものがあると思うんですよね。「補償」というのは心理学的には「精神的・身体的な欠点や弱点を意識するとき,それを補おうとする心の動きをいう」らしく、ニナの弱点というのは持病です。持病のために二ナは舞台女優として成功を収めることができず、劣等感を抱いていたことは容易に想像できます。その劣等感を累に対して、強く攻撃的な態度を取り、妄想的に自分を優れていると思い込むことで補償していたということですね。
二ナのモデルは劇中にも出てきた戯曲「カモメ」の登場人物ニーナだと思われます。ニーナは裕福な地主の娘で役者志望でしたが、ある芝居に失敗してしまい、役者としての夢を諦めかけます。しかし、ニーナは悲愛を経て、自分の信じられるものを見つけ、再び役者としての道を歩み始める。そういったニーナのキャラクター像がニナのモデルとなっていると思われます。
ニーナは役者を続けるけどなかなか芽が出ないんですよね。この辺は二ナも同じで、なかなか売れないことに対する劣等感を抱えていたと思われます。それでもニーナは「大切なのは耐え忍ぶこと」と役者を続けます。ニナも累と会うまでは耐え忍んでいたんですけど、自分の代わりに演技してくれる累を利用するようになってしまったと。この辺が二ナとニーナの違いですね。
映画中盤で、二人の立ち位置は大きく変わります。ニナが病に倒れ、5か月間眠り続け、その間に累は舞台で成功を収め、若手注目女優となっていきます。ベッドに寝ている二ナを累は上から見下ろしており、ニナは逆に寝た状態で累を下から見上げています。ここで二人の立ち位置に逆転が起こりました。累は二ナの顔で成功を収めたことで、自信を持ち優越感を感じるようになった。そしてニナはそんな累に嫉妬して劣等感を抱くようになりました。このときの芳根さん演じる累の余裕に満ちた目つきと土屋さん演じるニナの力のない目つきのコントラストがたまらなかったです。
そして優越感を得たまま「サロメ」の舞台に上がる累。自信を持って堂々とサロメを演じます。しかし、ここで見下す見上げるの構図の再逆転が起こります。演じる累を二ナは客席から見下していました。それは口紅のすり替えによって、累の醜い顔が晒される。自分が優位に立っているという優越感から来るものでした。しかし、心には舞台に立っている累に対する二ナに対する劣等感が未だに巣食っています。その劣等感を補償しようと攻撃的になる姿は、累との初対面の時から変わっていません。ここのほくそ笑む芳根さんもダークで味があったなあ。
一方、見下された累は優越感を覚えながら、下から見上げるという状態で劣等感も課せられています。優越感と劣等感という相反する感情を胸に抱きながら踊る累。ここの土屋さんの踊りがとにかくヤバかった。動きがキレキレで表情も何考えてるか分からない感じでゾクゾクする。観ている人たちを否応なく画面に釘付けにしていて、間違いなく作中一番の名シーンです。ちなみにこの踊り本当は10分くらい踊った後で、また何事もなかったかのようにセリフに戻るらしいです。体力お化けかよ。
そして、舞台は屋上に移ります。ここで見上げる見下すの関係はなくなり、二人は対等になります。そこには優越感劣等感入り混じったエネルギーが渦巻いており、クライマックスが近いことを印象付けます。「この顔になって骨の髄まで分かったはずよ!どうしようもない劣等感ってやつを!!」と累が投げかけるとニナは「私はあんたとは違う!私はあんたとは違う、中身まで醜くないから」と強く返します。
でも本当に中身が、心が醜いのはどちらでしょうか。累の心が醜くなってしまったのはその養子によりいじめられてしまっていたからです。「顔が歪めば心も歪む」とはよく言ったものです。しかし、累は途中まではまだ、ニナの人生を乗っ取ることはできないと、二ナに対する遠慮の心を持っていました。
それを壊したのは羽生田で、やはり累が自分からしたことではありません。累は周りの人によって心を醜くされてしまっていたのです。羽生田に焚きつけられた後の、ニナの母親を呼ぶことや、二ナに睡眠薬を盛るという行動は累が進んでやったことなので、これは累に責がありますけど。
というか羽生田悪い奴ですよね。羽生田の勝手な計画によって二人は巻き込まれた形ですし。ここで、話は逸れるんですけど、「累伝説」を基にした歌舞伎の累物では、ヒロインである累は美人で描かれてるんですよね。その代わりに夫が悪い奴になると。その夫が累の父親を殺し、累の母親"菊"と密通したという悪因縁が累に祟り、累は顔面がお化けのように醜く腫れ上がってしまい、最後は夫に殺されてしまうという話らしいんですね。原作は未読で、詳しいことは分からないのですが、映画「累」はその題名の通り、累物を下敷きにしてるのかなと調べていて感じました。「サロメ」もヒロイン・サロメが殺されて終わりですし、何より劇中最後のセリフが「あの女を殺せ!」ですからね。やはり累物の影響は強そうです。
話を戻します。一方のニナは自らが持つ劣等感を累を攻撃的に見下すことで解消しようとしていました。その姿はどう見ても醜いもので、土屋さんの迫真の演技もあって、目をそらしたくなります。でもその原因となった持病は二ナが望まないのに現れ出てくるもので、二ナにはどうすることができないものでもあります。つまり二ナも抗えない持病という因子によって心を醜くされていたと考えると、どうも二ナもそこまで悪いとは思えません。つまり二人の中身についてはどっちも醜く、どっちも醜くないということが言えると思います。
ラスト、預言者ヨカナーンの首を持ち上げ、セリフを語る累。累の中でヨカナーンの顔は二ナの顔に変わります。今までとは違い、偽物である自分が本物になったという優越感で、ニナの顔を見上げる累。そこには劣等感は感じられません。あらかじめ決められたはずであるセリフはすべて二ナに向けたもののように聞こえてきます。ここは土屋さんの独壇場でした。一人で観客の心を全て持っていくパワーが凄くて、身震いがしました。めっちゃ怖かった。
こうしたニナと累、二人の姿は私たちにも重なるところがあると思います。誰もが得意なこと不得意なことがあって、不得意なことについては劣等感を抱きやすく、得意なことについても上には上がいるということを考えるとこれまた劣等感を抱いてしまいます。ニナと累の持っていた劣等感は私たちも持っているもので、ニナの場合はそれが持病で、累の場合はそれが容貌であったというだけのことなんです。
そもそも劣等感というのはそんなに悪いものなのでしょうか。心理学者アードラーは「人間は劣等感を持っているからこそ,それを補うために努力し,それを通じて人格も作られ,人類も進歩する」と述べています。そう考えると劣等感というものは自らの進歩・成長のためにはなくてはならないものだと思われます。実際、累も自らの劣等感をバネにして成長していましたしね。
同じくアドラーは優越感の背後に劣等感が存在することを指摘もしています。「自分がほかのだれよりも優れているという感情をもちやすい傾向のある人物は、実際に優れているのでなく、自分の劣等感を過度に補償しようとして妄想的に自分が優れていると考えようとする」というのです。でも、それが行き過ぎるとニナのようにあまりに攻撃的な態度となり、人に害を及ぼしてしまうので気をつけなければなりません。
このように「累」は二ナと累という二人を通して、劣等感との向き合い方を私たちに考えさせてくれる映画でした。誰もが持つ劣等感という感情をテーマに描いたことで、怖いなと思わせながらもどこかで自分もそうかもしれないと思える。それによってニナと累の二人に没入していき、映画の中で起こっている出来事がより重大なことのように感じられる。「累」はそんな自分ごととしても観れるいい映画なので、是非お勧めしたいと思います。というか土屋さんと芳根さんが同じ画面に映ってること自体が眼福ですし。
以上で感想は終了となります。いつにもまして説明的になってしまいましたがいかがだったでしょうか。映画「累」、印象が強く賛否は分かれるかもしれませんが私は好きな映画です。原作も機会があったら読みたいなあ。
お読みいただきありがとうございました。