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【ネタバレあり】映画『判決、ふたつの希望』感想【たぶん、日本でも起こってる】


こんにちは。これです。

今日は第90回アカデミー賞外国語映画賞にもノミネートされた話題のレバノン映画「判決、ふたつの希望」を観てきました。社会派の映画で、私の知識がないためによく理解できないことも多かったのですが、それでも思うところはあったので、このnoteで感想を書きたいと思います。

拙い文章ですがよろしくお願いいたします。






~あらすじ~ レバノンの首都ベイルート。その一角で住宅の補修作業を行っていたパレスチナ人の現場監督ヤーセルと、キリスト教徒のレバノン人男性トニーが、アパートのバルコニーからの水漏れをめぐって諍いを起こす。このときヤーセルがふと漏らした悪態はトニーの猛烈な怒りを買い、ヤーセルもまたトニーのタブーに触れる “ある一言”に尊厳を深く傷つけられ、ふたりの対立は法廷へ持ち込まれる。やがて両者の弁護士が激烈な論戦を繰り広げるなか、この裁判に飛びついたメディアが両陣営の衝突を大々的に報じたことから裁判は巨大な政治問題を引き起こす。かくして、水漏れをめぐる“ささいな口論”から始まった小さな事件は、レバノン全土を震撼させる騒乱へと発展していくのだった……。 (映画「判決、ふたつの希望」公式サイトより引用)



※ここからの内容は映画のネタバレを含みます。ご注意ください。



まず、この映画にはパレスチナをはじめとした中東問題や難民問題など多くの予備知識を要する映画となっています。が、あくまでそれらはあればより深いところまで理解できるというもので、別になくても鑑賞にはさほど支障がありません。実際私もレバノンやパレスチナ、内戦や難民などの予備知識はさほどない状態で観に行きましたけど、十分楽しめましたし。それはなぜかというと背景となっている歴史をちゃんと説明してくれるからなんですよね。


例えばヤーセルが激昂した「シャロンに抹殺されてればな!」という言葉。ここでいうシャロンとは元イスラエル首相アリエル・シャロンを指しています。なぜこれがヤーセルに対する侮辱の言葉となったかというと、シャロンは1982年イスラエル国防大臣に就任し、レバノン侵攻作戦を指揮しますが、その際にパレスチナ難民を虐殺していたからなんですよね。ヤーセルは1955年の生まれですから当時を知っているわけです。これでは激昂して暴力に訴えるのも無理はありません。映画ではこのシーンの前にシャロンの名前がちゃんと登場し、しかも当該シーンではシャロンの演説をテレビで流してくれるという親切設計となっていました。


この件でトニーはヤーセルを訴え、裁判を起こします。一回目の裁判は証拠不十分でヤーセルに有罪判決は下らず、流れてしまいます。トニーはこれに対して控訴し、両者とも新しく弁護士を雇って第二審に臨みます。それぞれの検察官と弁護人が激しい論戦を繰り広げ、メディアも大々的に取り上げます。それによって二人の裁判はますますヒートアップしていき、国を巻き込んでの一大事になっていきました。


ここで、なぜ二人の裁判がヒートアップしたかというと、パレスチナ人ヤーセルとキリスト教徒のレバノン人トニーの対立の構図がかつてのレバノン内戦と同一だったからなんですよね。レバノンはもともとキリスト教徒優位の制度が定められていて、イスラム教徒は不満を持っていました。そこに1970年9月ヨルダン政府軍によるパレスチナ・ゲリラの弾圧後、大量のパレスチナ人がヨルダンからレバノンに移ってきました。


1975年4月にはベイルート郊外でキリスト教徒の部隊がパレスチナ人の乗ったバスを襲撃した事件をきっかけに、キリスト教徒軍とイスラム教徒・パレスチナ連合軍との間に大規模な内戦へと発展しました。その後もシャロンの件など内戦は断続的に続き、1992年9月に内戦は一応の収集という形を見せました。が、人々のなかでは依然その内戦の火が燻っていたんですよね。それがヤーセルとトニーの裁判という燃料が投下され、再び燃え上がったというわけです。この辺りは弁護人と検察官がきっちり説明してくれたので、レバノンの内情を知らない私でも置いていかれることなく観ることができました。







二人の裁判は国を揺るがす一大事件に発展していったわけですが、トニーはただヤーセルに謝ってほしいだけでした。トニーの部屋のバルコニーから水が漏れてそれがヤーセルたちにかかってしまう。ヤーセルは無料でトニーのバルコニーに雨どいをつけますが、これをトニーは叩き割ってしまいます。それを見たヤーセルはトニーを「クズ野郎」と罵る。これに対してトニーは謝罪を求めた。ただそれだけのシンプルな問題でした。


ヤーセルは一回はトニーに謝ろうとしますが、トニーは「シャロンに抹殺されていればな!」とヤーセルのタブーに触れる言葉を発してしまい、ヤーセルはトニーを殴ってしまいます。ここでヤーセルは堪えてトニーに謝ればよかったのですが、尊厳をズタズタに傷つけられて許すことなんてできなかったのでしょう。自らの一番根っことなる部分を切り裂かれては許せないのも当然です。しかし、ヤーセルが謝らなかったことで事態はどんどん大きくなっていきます。


程度の差はあれど、こういうことって日本でもあると思うんですよ。例えば学校でのいじめ。ここでいじめっ子がすぐに謝ればいいのですが、本人には悪いことをしているという自覚がないため謝らない。または謝っても反省の気持ちがないため、またいじめを繰り返す。そうやってグループ単位での問題だったのが、クラス会の議題になり、全校集会で校長先生が話し、教育委員会に取り上げられてどんどん事が大きくなっていく。いじめっ子が本当に反省して謝ればそれで済む話(済まないけど)なのにもかかわらずです。ヤーセルとトニーとは一緒くたにしてはいけませんが、素直に自らの非を認められないことで大事に発展していくというのは、どの集団でもよくあることだと思います。





話を戻します。ヤーセルとトニーの裁判はだんだんと国単位でのトピックになっていきます。ここで大きく取り上げられたのがパレスチナ難民問題。難民やそれだけではなく移民の受け入れ問題というのは世界中で起こってますよね。難民や移民を受け入れるとその分の食糧が必要になり、さらには彼らも働いて生活しなければならないため、元々いた人達の雇用が奪われてしまうという問題もあります。自分たちのことだけを考えるなら難民や移民は受け入れない方がいいのです。このものすごくエゴイストな考え方は映画のなかでも繰り返し触れられます。自分たちさえよければそれでいい、他の人がどうなったって知らないという人間の醜さと残酷さが表に引きずり出され、私は長い時間、顔をしかめながら観ていました。


個人的には、これも日本各地で起こっていると思うんですよね。実際に日本も難民を受け入れてはいますが、そういう大きな話ではなくてもっと小さなレベルで。例えば会社で失業者を受け入れた、雇用したとするじゃないですか。それにより自らに割り当てられる仕事の量が減ってしまったら、残業が減って早く帰れるっていう人もいますけど、仕事を奪われた感じがして少し嫌な気分がしませんか。


それにそれまで働いていなかった、長い間仕事から離れていたっていう人とすぐ同じ目線に立って接することができるかっていうとなかなか難しいものがありますよね。それでハブってしまったりとか職場いじめに発展してしまったりとか。スケールは段違いですけど、根底にあるのは自分さえよければいいというエゴですよね。多くの人が持っている醜い部分がこの映画ではこれでもかと見せつけられるので、見てて眉間にしわが寄ることも多いと思いますが、それでも目を逸らしてはいけません。直視すべきことなのです。







※ここからの内容は映画の核心に迫る内容ですので、未見の方は十分にご注意ください。


そして映画は進んでいきます。いくつかの重大な事実が明かされていき、そのなかには物語を根底からひっくり返すようなものもありました。それはトニーの過去です。


実はトニーはベイルート出身ではなく、近くの町ダムール出身でした。そのダムールでは40年前に集団虐殺事件が起こり、トニーは命からがら逃げのびた生き残りのうちの一人でした。いわばトニーも故郷を追われた難民の一人と言えます。トニーは心に大きな傷を負っているのです。ただ、こういった”事件”はより重大な内戦の前に闇に葬られてしまっています。


「みんなが傷を負っている」


検察官が判決前にこう言いました。外からの傷にばかり目が行って、内部の傷に目をやれていなかったと。これも多くの人に言えそうです。分かりやすいところで言えば、切り傷や擦り傷などの外傷はすぐに分かっても、内臓への負担やそれに伴う症状というのはなかなか分かりにくいですよね。さらに外傷は目に見えるのですぐ治療ができますが、内傷は発覚までに時間がかかり、気づいた時には手術を要するレベルになっていたり、手遅れだったということもあります。


さらには心の傷は内部のさらに内部にあり、外からは全く見えません。心の傷を顧みるのは大変にしんどいことです。外からの傷ばかりに目を向けて、内の傷を見ないようにするのは個人レベルでも同じなのです。心にトラウマという傷を抱えている人は少なくなく、レバノン人にとっての心の傷は「内戦」でした。彼らの心の傷が広げられて、痛みが伝播していく様子は目を背けたくなります。ただこれは日本でも、内戦という大きなレベルではなく、起こりうる、すでに起こっていることなんだなと感じました。


私が映画の観方として「どれだけ感情移入できるか」「どれだけ自分事として観れるか」ということがあるのですが、その点において「判決、ふたつの希望」はパーフェクトな映画でした。日本は戦後73年が経ち、戦争を経験している人も少なくなりました。大きな内戦も起こっていません。ただこの映画で描かれた裁判と周囲の反応は、日本でも、私たちの周りでも十分に起こりうることです。醜い一面も残酷な一面もありますが、それもひっくるめて一人の人間なのです。そこから目をそらさないことを「判決、ふたつの希望」は教えてくれました。今観るべき映画です。








以上で感想は終了となります。「判決、ふたつの希望」、中東の知識を持っていなくても問題なく観れますし、知識もつくので観る価値は大いにあります。思い当たる節がある人も多いと思われますので、ぜひ観てみてください。おすすめです。


お読みいただきありがとうございました。

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