勉強したことは必ずお金になるようにする。
私は医療従事者である。
何となく研究とビジネスの興味があり、勉強することが多い。
研究は、参考書を自費で購入(最近は¥5000の本を3冊)するか勤め先の図書館にある医学書を無料で読む、あるいは無料で読める論文にアクセスする、といった感じである。
ビジネスはグロービスのグロ放題を契約して、¥2000/月を支払って勉強している。
勉強して、何かを知ったつもりになると満たされる気がする、安心する気がするのはきっと私だけではないだろう。
人は頑張っている時に、頑張っている自分を発見することで安心したりする。
『あー、俺やってるわ。周りの連中より頑張っててカッコええわぁ。』てな具合に。
大事なのは、何か越えたい壁があるから勉強しているという視点である。
そもそも勉強なんて、普通やらなくていいはず。
でも働いて、よーーーくわかった、そんなに甘くない、この高度資本主義社会のラッドレースに乗せられて生きることは。
自分の越えたいと思った壁が、ある種の『自分の興味の範疇』であった場合、周囲の人からすれば意味不明なのだ。
家族であっても理解できないだろう。
でも、その壁を越えた時に自分に訪れるご褒美(心理的報酬)だけでなく、周囲の人と共有できるご褒美がある。
それが『お金』である。
必ず自分が越えようとしている壁は、お金に換えるという意識が必要。
私は、私以外の人と価値観が似ていても同じということは絶対に無いと思っている。
私が喜べることは、私以外が喜べるようにデザインしたい。自分だけ喜べる程、私も薄情な人間ではないのだ。
いいか、自分。君がいま勉強している理由は、自分の心理的報酬と君の大事な人に喜んでもらうためだ。
自分のためだけなら、是非お金をかけずにやるといいさ。