江戸使節団のデジタル追跡 パナマ地峡を渡ったサムライたちの旅 第七話
④パナマ地峡鉄道の旅 アスピンウオール駅到着
サンパブロ駅での休憩と昼食を終えた使節団は、再び特別列車に乗り込みカリブ海側の港町、アスピンウオール駅(現在のコロン市)を目指してパナマ地峡横断の旅を続けていったのです。
村垣範正の「遣米使節日記」によると、「パナマからここまで見送ってくれた人々はここで下車したので、列車の中ではくつろぐことができた」と、記しています。そして、「やがて川を渡ると、向こうに人家がたくさん見えた。客車の左右に切り通しになった高い山見える。車外に丘陵見え、椰子の樹やバナナの樹も見えた。見慣れぬ鳥も見える。」とも、ありました。
しかし、汽車はあっという間に通り過ぎるので、何一つじっくり見る暇などはなかったことでしょう。そのうちに、目ざすアルスピンウオールに到着したのです。
車中、今回の使節団の一員である森田岡太郎は、そうした土地の有様を詠んだ七言絶句を作りました。
奇獣珍禽簇異花 奇獣珍禽(ちんきん)異花にむらがる
有椰株処両三家 椰株(やかぶ)のある処両三家
眼前風景難看取 眼前の風景看取(かんしゅ)しがたし
電激弄過霹靂車 電激に弄過す(走り過ぎる)霹靂車(へきれきしゃ)
(汽車)
・・・なるほど・・・
パナマ日本時学校在任時、実は私たち家族はコロン市街には一度も訪問したことはないのです。パナマの友人たちには申し訳ないのですが、「治安上の理由」からなのです。じゃ、パナマ市は大丈夫かというとそうではありません。
海外に在住する日本人にとっては「治安確認」は常識的な行動パターンです。帰国後、日本はいかに安全な国なのか実感しました。だって、日本の道端には、よく冷えた飲み物と現金が入った無人の箱が至る所に置いてあるのです。しかも、一晩中その周辺は明るいのです。不思議!
パナマ在住当時、パナマからコロンまでパナマの運河観光ツアーで、観光船でコロンまで行き、待ち受けていた観光バスで、すぐにパナマに帰っただけです。ただし、コロン市の手前で北東にハンドルを切って進んだ所には、ポルトベーロという観光地がありますが、そこには何度も家族でドライブしました。(ポルトベーロについては、後述とさせて頂きます。)
1860年のアスピンウオールの旅に戻りましょう。ここからは、Sr.Nodier García氏に案内をお願いしましょう。彼のメールによると、
「地峡を横断した後、一行はコロン市に到着した。当時、コロン市は、鉄道敷設の発案者であるウィリアン・ヘンリー・アスピンウォールの姓にちなんでアスピンウオールと呼ばれていた。
使節団一行は、5番街近くのアヴェニーダ・デル・フレンテ(Avenida del Frente)の端に位置する大西洋ターミナルに到着した。
大西洋ターミナルの最初の建造物:パナマ鉄道の開業当初から、アスピンウオール市(コロン)にはターミナルとみなされる建造物がいくつかあったが、それらは旅客取扱には適していなかった。それらは、貨物ターミナル、格納庫、商品と郵便サービスを扱うために機能し、旅客の乗降に使用された建造物であった。1857年に最初の貨物ターミナルが建設され、5番街近くのアヴェニーダ・デル・フレンテ(Avenida del Frente)の端に位置する木造アーチ型の5つの出入り口を持つ列車用構造物であった。」と、ありました。
出典
Fuentes: Biblioteca Rodolfo F. Chiario ACP, Illustrated History of The Panama Railroad by F. N. Otis, LA ARQUITECTURA FERROVIARIA DE LA CIUDAD DE COLÓN: Hito en la historia de la ruta de tránsito por Panamá por Almyr Alba.
Web: Arquitectura y Urbanisimo en Panamá (Facultad de Arquitectura,Universidad de Panamá )
特に 下記の図面に着目しました。
(パナマ大学の工学部のWebサイトからの資料)
Google Earthの登場です
佐藤藤七の「渡海日記」では、
「アスペンオール」は「パナマ」の東辺の港にして人家三四十軒 英吉利米利堅人多く来り住す土人は「パナマ」に黒色なり 諸州の船七八隻来る 蒸気車より直に迎の小舟より米利堅迎の為に来たる「ローノーク」と云軍艦乗り移る」と、記しています。
そう考えると、パナマに上陸していた時間は、4月25日の半日程度だったのです。しかし、けっこう中身の濃い旅でしたね。この日は、アスピンウオール沖の米国軍艦「ロアノーク号」で宿泊しました。
4月26日の朝には、カリブ海での長い航海に備えて、給水の為に北東にあるポルトベーロに、パナマの陸地に沿って移動し、その日は、ポルトベーロ沖の船内で宿泊したようです。
日記では、「ウオトベラ」(ポルトベロ)と云処に至る両山高く聳へたる(そびえ立つ)入海に碇泊し「ポムプ」を以て水を船中に引此処山深谷嶮にして虎豹毒蛇の類多しと云山猫能く人を害す」と、ありました。けっこうワイルドな場所だったようですね。
ここで、最後のデジタル追跡です。
とはいえ、「土地勘だよりの推測追跡」ですが・・・。
ここまで来てしまったら、さすがに、「鉄道オタク」の看板を下ろして、「パナマ観光ガイド」の看板につけ替えます。
ポルトベーロは、パナマ初の世界遺産の一部なのです。ここは、スペイン植民地時代にカリブ海の海賊による略奪行為から港と街を守るためにつくられた要塞の跡です。当時パナマのカリブ海沿岸地域は、南米のペルーなどから集められた金銀財宝をスペイン本国へ運び出すための積出港として機能していました。そのため、集められたお宝を狙って多くの海賊たちが略奪行為を行っていたのです。ポルトベーロの街が建設されたのは16世紀末のことです。詳しくは、Web検索で。
乱暴に言うと、ディズニーのアトラクション「カリブの海賊」、映画だと「パイレーツ・オブ・カリビアン / 呪われた海賊たち」のイメージです。
栄耀栄華の時代を過ぎて「荒城」となった砦の跡は、郷愁を覚えさせる世界遺産です。
サムライが立ち寄った時代も、すでに寂れた港の村だったのでしょう。
一方、私たち家族にとっては、お気に入りの場所のひとつで、何度も訪れました。カリブで海水浴、シュノーケリング、フィッシング。そして、グルメ・・・
ここで再び、佐藤藤七の「渡海日記」に戻ります。
4月27日 「皆上陸して沐浴す 夕七時出帆」と、ありました。いよいよパナマともお別れです。 ¡Adiós Panamá!
4月28日には、ロアノーク号は、すでにカリブ海上。キューバに向かって航行中。
これで、私たちの「江戸使節団のデジタル追跡 パナマ地峡を渡ったサムライたちの旅」は終わりとさせていただきます。
しかし、「ジャック・スパロウ」と「サムライ」のイメージが、どうしてもしっくりこないのは、私だけでしょうか・・・?
それでも、次は、最終話。
5.サムライたちが教えてくれたこと
もくじ
はじめに (第一話)
1.江戸使節団のデジタル追跡ツール登場 (第一話)
2.La estrella de Panamá社の1860年4月30日の記事の読み込みと翻訳作業
(第二話)
3.Google Earthを利用して江戸使節団の足跡をマッピングする
(第三話)
4.パナマ地峡鉄道 アマチュア研究者との情報交換から
(Facebookの活用)(第四話)
① パナマ地峡鉄道の旅 パナマ上陸 旧パナマ駅へ
(Facebookの出番です) (第四話)
② パナマ地峡鉄道の旅 驚愕の蒸気機関車 (Facebookの活用)
(第五話)
③ パナマ地峡鉄道の旅 湖の底に沈んだサンパブロ駅
(Google Earthも使って)(第六話)
④ パナマ地峡鉄道の旅 アスピンウオール駅到着 (第七話)
5.サムライたちが教えてくれたこと (最終話)
・江戸の遣米使節団とパナマ地峡の物語が幕を閉じる
・エピソード1: サンパブロ駅での豪華な食事
・エピソード2: ポルトベーロでの危険な沐浴
・帰国後のサムライたち
・サムライたちからのメッセージ
・付記
付記
研究協力者:Colaboradores en la investigación:
Sr. Nodier García
出典:Fuente:
小栗忠順の従者 佐藤藤七の記録「渡海日記」© 東善寺
小栗忠順の従者の記録 名主佐藤藤七の世界一周 © 東善寺
小栗忠順の従者 通訳 木村鉄太の記録「航米記」© 青潮社
万延元年遣米使節団 副使 村垣範正 「遣米使節日記 復刻版」© 日米協会
万延元年の遣米使節団 宮永 孝 ©講談社
山本厚子「パナマから消えた日本人」 ©山手書房社
La estrella de Panamá社
画像提供:Imagen cortesía:
El sitio de la Biblioteca Rodolfo Chiari de la Autoridad del Canal de Panamá
Lic. Mickey Sánchez
Sr. Eardweard Muybridge
Sr. Theodore da Sabla