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ロラン・バルト「明るい部屋」

20世紀のフランス現代思想に限りない影響を与えたロラン・バルト。そのロラン・バルトが写真について書いた「明るい部屋」。この本は、後述の通り、いわゆる普通の写真の技術書ではない。私はこの本が好きだ。特に惹かれた箇所は最初と最後にある。

最初、彼が言わんとしていることはこんな感じである。

写真について書きたいが、一般論には惹かれない。写真の本質は「かつてそこにあった」ということである。一般論的な、風景写真の構図の規則など、私にとってなんの関わりがあろう。自分にとっての写真論を構築したい、いや、するのだ。

主観性と科学の関係については、要するに型にはまった例のとおりの議論が行われているが、その議論を通して私は、つぎのような奇妙な考えに到達したのである。一体なぜ、いわば個々の対象を扱う新しい科学がないのか?なぜ(「普遍学」Mathisis universalisならぬ)「個別学」(Mathesis singularis)がないのか?と。そこで私は、自らを「写真」全体の媒介者とみなすことに同意した。私は若干の個人的反応から出発して、それなしでは「写真」が存在しえないような、「写真」の基本的特徴や普遍性を定式化しようとつとめるであろう。
ロラン・バルト(花輪光訳)「明るい部屋」

この文章に強く惹かれる。これは彼の「自然」に対する反抗の姿勢が見て取れる。彼の著作の多くは「自然」「歴史」「神話」など、一般化、普遍化に対する反抗なのだ。
この切り口でいくとなんでも批評できる。だが、それが良いのだ。「自然」に対し反抗すること、逃れること。その決意を、感動を、文頭で高らかに宣誓しているのだ。

この宣誓の後、文章中盤では、実際にバルトが惹かれた写真を、私的体験と合わせがら批評していく。

そして、最後。私が好きな箇所。要約すると次のようである。

写真において確かなことは「かつてそこにあった」ということである。写真は被写体の存在そのものを誇張する。それはどの媒介物より直接的だ。「写真」は現実を擦り写しにした狂気の映像なのである。
社会は「写真」に分別を与え、「写真」の狂気をしずめようとつとめる。その方法は2つあり、「写真」を芸術に仕立てる方法、「写真」を一般化し、大衆化し、平凡なものにすることによって、ついには「写真」の前に他のいかなる映像も存在しなくなるようにする方法である。前者は、現実から切り離された虚構であり、後者はステレオタイプ化されたイメージを消費するものである。
狂気をとるか分別か?「写真」が写して見せるものを完璧な錯覚として文化的コードに従わせるか、あるいはそこに蘇る手の負えない現実を正視するかか、それを選ぶのは自分である。

どの写真論とも異なる結論。ここからも彼の「自然」に対する反抗を見ることができる。分別(「良い写真」として消費)v.s.狂気(身体の現前性への驚き)。どちらを選ぶかは私次第だ。


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