![見出し画像](https://assets.st-note.com/production/uploads/images/52249551/rectangle_large_type_2_04cda6d292875b8d2983f9f9817c274d.jpg?width=1200)
【私の90年代 vol.1】 KATSUMIさん(ミュージシャン)
高校卒業後、故郷の茨城県日立市から東京に出てきて、音楽の専門学校に入りました。もっとも、音楽の学校に行くというのは親に対する言い訳で、とにかくバンドがやりたかったんです。
とはいえ、ここまでの結論に至るまでにはそれなりの葛藤もありました。父は僕が生まれてすぐに急逝し、母は再婚せずに姉と僕を育て上げてくれました。姉はともかくも、僕は長男として地元に留まるべきなのではと考えていました。けれども、姉が都内の大学卒業後に地元に戻ることになり、僕が入れ替わりで上京を選択できたのです。
専門学校を卒業してからもアマチュアバンドを組んで活動していました。そのときのデモテープがきっかけで、デビューにつながる人に出会いました。1987、88年頃のことです。
ただ、バンドブームが終わりを迎えていたこともあり、業界受けは芳しくなく、2年ほど事務所が見つかりませんでした。そんな中でバンドも解散してしまい、僕一人が事務所に預けられました。
90年4月にデビューが決まったときは、子どもの頃からミュージシャンになることを目標にしていたため、「やっとスタートだ」と喜んだ反面、バンドでやりたかったというモヤモヤした感情も同居していましたね。
所属したのは「パイオニアLDC」という新しいレコード会社。しかも僕がJ-POP歌手の第1号だったので、「KATSUMIくんを担いで頑張ろう!」と、今から思い返せばいきなり神輿の最上段に乗せられた状態でした(笑)。夢が叶ったわけで嬉しかったですが、世界が変わりすぎてグルグルしていたかも。
文化祭で受けた衝撃
音楽は昔から好きでしたよ。ピアノなどの専門教育を受けていたわけではありませんが、小学校の授業で歌ったり、音楽鑑賞したりするのは楽しみでした。
よく覚えているのは、3、4年生の頃。音楽の授業で歌った童謡「富士山」が強く胸を打ちました。そして、家に帰り、お風呂の中で歌うと、反響した自分の歌声が実に素晴らしく聞こえるんです(笑)。「将来、僕は歌手という職業につくかもしれない」という気持ちをぼんやりと抱くようになりました。
音楽ジャンルは、とりわけロックにのめり込みました。4つ上の姉が持っていたビートルズやクイーンなどのレコードを聞いたり、洋楽専門番組の「ベストヒットUSA」を見たり——。でも、一番の衝撃だったのは、6年生のときに、友達に誘われて学区の中学校の文化祭へ行き、初めて生でエレキバンドの音を聞いたことです。“背中に電流が走る”とは、こういうことを言うのかと。その瞬間に「これだ!」と自分の目指す道が決まりました。
ロックミュージシャンを夢見ていたわけですから、できればバンドでデビューしたいという気持ちはありました。ただ、当時からお世話になっている音楽プロデューサーの武部聡志さんに、「メンタル的なバックグラウンドがロックであれば、音楽のジャンルは関係ないのではないか」ということを教わりました。
たとえ16ビートのダンサブルな曲をやっていても、気持ちがロックであればいいのだ。すぐにそう割り切って、前を向くようになりました。
それと、アマチュアバンド時代から「ロックっぽくない」と言われることにも慣れていました。バンドは本格的なアメリカンロックを演奏していたのですが、「KATSUMIくんが歌うと、杉山清貴さんのように爽やかだよね」とよく指摘されていましたから(笑)。
90年代前半の経験が糧に
デビューしてからは、とにかく慌ただしく過ごしていました。先ほど触れたように、いきなり担ぎ上げられて、レコーディングやプロモーション活動に忙殺される毎日でした。
「バブルの象徴」と評されたり、「とんとん拍子でしたよね」、「すぐに売れましたよね」などと言われたりしますが、当事者としてあまり実感はありませんでした。確かに、周りから見れば、「あいつはものすごいスピードで突っ走っているな」と思われていたかもしれませんが。
けれども、その代償として、体はボロボロでした。歌い続けることによる筋肉疲労に加えて、自分のやりたいことができないもどかしさもあり、精神的な疲れもありました。
当時の僕の曲は、高速道路を200キロで突っ走っているようなイメージのものばかり。疲れているときはそんなにアクセルを踏めないものですが、そうせざるを得ませんでした。
でも、振り返ってみれば、このときの経験が人生の糧になっていることは間違いないです。
人間が成長できる「栄養」というのは、調子が良いときには手に入りません。神輿の上に乗っかっているときなんて、そんなことわかりっこないですよ。
90年代の前半は、常に自分の中にいる見えない敵と戦っていました。だけど、あの時代があるから、今も自分の名前で仕事ができるんです。つまずいて、苦しんでいた時期が、僕にとって一番の宝物です。
経年美化
いろいろな人生経験をしてわかったことがあります。結局、何かと比べるから自分が揺らぐのだと。音楽もそう。何が流行っていようと、自分のチューニングさえずれなければいい。
いまの若い人たちのサウンドや感度には敵わないし、勝負したいとも思いません。保守的に聞こえるかもしれないけれど、誰にでも自分の土俵があります。普段は聴かなくても、たまに「KATSUMIの音楽もいいよね」と思ってくれれば、それでいいのです。
よく「どういう音楽をやっていたいですか?」という質問をされます。誰かに合わせるのではなく、僕は、自分の中から正直に生まれてきたものを「これいいでしょ」と歌っていきたいです。
ただ、それ以上に、コロナ禍で人々の気持ちの分断などを目にすると、「いい人間でありたいな」と心から思います。いい人間であり続けることが、いい音楽を作り続けられる一番の源じゃないかなと最近は特に感じますね。
僕のことを華やかに見る人は多いですけど、デビューしてから93年頃までのヒット曲が僕の90年代の絶頂かもしれません。その後は悩んでばかりでした。コンディションが悪くなり、「もしかしたら引退かな……」と考えてもおかしくない時期もありました。
でも、歌うことを嫌いにはなりたくなかったです。誰かに勧められて音楽の道を目指したわけではなく、小学生のときに衝撃を受けて、「こういう仕事をするんだ、プロになるんだ」と誓ったわけですから。だから、音楽や歌を嫌いになってやめることは絶対に嫌でした。
それに、僕は田舎で生まれ育ったし、今みたいにインターネットもないので、情報は少なく、やりたいこと、できることなんて限られていました。そうした中で、子どもの頃にエレキの音を聞いて以来、ずっとぶれずに音楽に関わることができるなんてラッキーですよ。
漆の茶器の美しさは、「経年美化」と言うんですって。経年劣化ではなく。人間も同じです。歳をとっても、いや、歳をとったからこそ、いいものが残っていくのです。90年代は辛いこともたくさんあったけれど、歌うことをやめなくて本当に良かったなと思います。
僕にとって90年代は「黄色」
注意信号ではなく、ハッピーで、元気な色。KATSUMIといえば、黄色のような、原色っぽい感じではないかなと思います。あの時代を元気良く突っ走ることができた黄色。そう思いたいです。
※掲載写真はすべて(C)TRIUMPH INC.
【取材後記】90年代の企画をやろうと決めたとき、ぜひ話を聞きたいと思ったのがKATSUMIさんでした。大活躍していましたし、個人的にもリアルタイムで購入したCDシングル「笑顔でいいね」などは今でも愛聴しています。
今回初めて対面したKATSUMIさんは、明るく爽やかで、「心優しい人」オーラが溢れ出ていました。90年代前半、私が中学生の頃にテレビや雑誌などを通じて抱いていたイメージと、良い意味でまったく違いました(笑)。
いろいろな経験をする中で、苦労もあったし、回り道もしたけれど、最終的には「それも自分なんだ」「自分がどう生きるかなんだ」というKATSUMIさんのメッセージがとても印象的で、勇気をもらいました。(伏見学)