【私の90年代 vol.6】 谷川伸人さん(会社員)
1990年代は、今の自分の基礎を作った時代であると断言できます。
工業大学出身で、無線通信機器の設計業務に携わりたいと考え、会社の門を叩いたのですが、入社後の配属は営業部。「え、冗談だろ?」と思いましたね。
営業の仕事なんて想像もつかなかったし、慣れ親しんだ地元・大阪ではなく、縁もゆかりもない東京で働くわけですから、戸惑いはありました。さらに、扱う商材はアマチュア無線ではなくビジネス無線で、当時はその分野自体の認知度も低かったため、営業活動も苦労しました。
唯一の楽しみと言えたのが、週末にパチンコやパチスロに行くことでした。学生時代から好きで、よく通っていました。そのころ雑誌などに出ていた新宿や高田馬場の“名店”に訪れたときには、東京に出てきて良かったなと小躍りしました(笑)。
そんな社会人生活のスタートですから、平日はとにかく仕事ばかりしていました。ただ、法改正など、時代の流れもあって、やればやるほど営業先がどんどん増えていくのは面白かったです。また、「もっと売れるためにはどうするべきか?」と知恵を絞り、自分なりのソリューション営業スタイルを確立できたことも良かったです。90年代が終わるころには、すっかり営業マンが板についていた気がします。
ちなみに、2001年にはソリューション事業部が新設され、そこへの異動となりました。自分が培ってきたことが、多少なりとも会社に評価されたのだと嬉しく思いました。
私にとって90年代のカラーは「スカイブルー」
毎年のようにやるべき目標が見つかっては、視界が広がっていく状況でした。また、就職、東京生活、営業、結婚、子どもの誕生と、これまでの人生で経験したことのない出来事を次々と体験して、新しい世界に突入していった10年間でした。
【取材後記】1990年の「バブル崩壊」とともに社会人になった谷川伸人さんですが、そこまで不況を肌で感じることはなかったと言います。身を置いていた業界にもよるのでしょうが、総勢500人でハワイへ社員旅行したという話などを聞くと、まだまだ世間一般には勢いのある時代だったんだなとうかがい知ることができました。
最初は「東京なんて」と思っていたそうですが、気が付けば、故郷・大阪で過ごした年月よりも、東京暮らしのほうが長くなりました。谷川さんの言葉通り、現在につながる土台が築かれた10年間でした。(伏見学)