我在り。故にここが私の居場所である。

最近spoonというラジオアプリで聞いたいくつかの音声と最近考えたことを絡めて、私的に「居場所」というものを再構築できそうだと思ったのでここにまとめておく。

今回は序章。

「居場所がない」という感覚は私もよくあるので、この手の話題はわりと見聞きしている。2か月くらい前に自分も「ただいるだけでいいとはまだ思えていない件」ということでCASTを取っていて、自分の話していることを振り返ってみたり。

その頃、soarというWEBサイトでこういう記事を見た。

“人からの期待に応える”ことでしか、自分を認められない。そんな私が自分のための人生を歩み始めるまで/あかしゆか

わかる、なんとなく。

ただいるだけでいいとか、何もしなくてもいい場所ってそんなユートピアこの世にあるんか???ですよ。

それをこじらせて、「居場所?そんなもん最初からないですよ!」と認知的不協和を発動してみたりw

ていうか居場所ってなんだ??
ただ”居場所”と表現するのはあまりにも漠然としすぎているのでは?

居場所がない、ここが私の居場所だ、の“居場所”にはいくつか修飾語句が付くはずだ。一般化するために言葉を削ぎ落して“居場所”としているはず。

居場所には心地いいのもあるし、悪いのもあるし、安心できるところもあるし、安心できないところもあるし、ただいるだけでいいと思える場所もあるし、義務を果たさなくてはならない場所もある。

どういう居場所があってどういう居場所がないのか。

的なことを悶々と考えていたら、ふと、「ここで考えている自分はここにいるし、その場所が居場所じゃない理由があるのか?」「少なくとも自分は考えているこの空間から逃げようとは思っていない。考えてる自分がいる場所は私にとっては良い居場所のような気もする」的なことを思った…デカルトかよw

そして、なぜか居場所に対してコンプレックスを抱えている人が、「何かしらの居場所になりたい、居場所を提供したい」と考えている気がする。自分も含めて。本来はその人にとって居心地のいい場所が必要なのに、与える側の視点を持つ人が何となく多い気もする。いや、究極的には、無いなら作ってしまえってことなのか笑

自分が言う、居場所がない、の居場所にはどんな修飾語句が付くだろうか?どこにいても、思考、考える自分がいる場所は私の理想に近い居場所だと言える。そこが職場でも電車の中でも。

ある意味こうやって物事を発信したいときに発信できる環境は、自分の居場所としては快不快で言うと快の分類に入る。それでもなお”居場所がない”と思っている。

突き詰めると、そこは自分ひとりではないほうがいいような気もする。
さきほどよりもかなり非現実的な方向だ。


しかし他人は所詮他人だ。

ここで認知的不協和を生じる。
そんな場所などない、と。

とここまで書くと思いだすのは福田恒存である。

自分が理解されないと思うのと同じように相手も私に理解されないという状況を抱えているのだ。

福田は厳しい。
手を差し伸べてくれた・救ってくれたと思ったら、片手で問いを投げかけてくる。

そして、福田恆存(浜崎洋介編)『保守とは何か』を読んでいたら、居場所に対するシンプル過ぎる言葉を見つけてハッとした。長くなってしまったのでそれは次回。

「ここに私がいること忘れないでいて」という自分への戒めも含めて。

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移行前のキムラ
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