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Achieving Madness

愚かな人生はある。不可解な生活もある。無価値な生もあるだろう。
しかし/だから、狂おしい思いで、その狂える倫理を書きとめる。
何かが狂う。何かが正される。
そして何かが動きだす。若き友人たちの本ができあがった。
                      ――小泉義之(立命館大学)

『狂気な倫理』帯文より


本日、公刊である。『狂気な倫理――「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定』

13章から成る論文集の一章分を私が(もちろん、本名で)執筆している。

本書は学術書に分類されるものであり、14人の執筆者のほとんどが研究者であることから一般書(エッセイや小説など)とは趣が異なる。想定される読者層も、大半は研究者(学者)だろう。
しかし、章ごとに読解の難解さには多少ばらつきがあるので、興味を持った章だけを読むというスタイルであれば、研究職以外の方でも読むことができると、執筆者の一人として思っている。


本書を構成する原稿執筆のお誘いがあったのは、昨年9月末だった。その時は「書き下ろしの新しい論文を一本書く」という程度にしか考えていなかった。師である小泉義之先生(本稿に限り、こう表記する)に、ずっと(論文を)書くようにと言われていたテーマ(怠惰な性格と気乗りしない主題であったため、先延ばしにし続けていた)に取り掛かる機会であったことと、小泉先生から受けた莫大な学恩を、小指の爪の先程度でもお返ししなければと思った。この二つが執筆の動機だった。

草稿から完成稿として脱稿するまで、何度書き直したことだろう。内容も草稿と完成稿では、まったく違うものになった。これはひとえに本書の編著者であるお二人のご尽力の賜物である。わざわざ時間を割いて、こちらが取り上げた先行研究(論文)を、最初から最後まで丹念に読み込んで下さった人を、私はこのお二人のほかに知らない。自分の専門分野以外の論文を読む大変さは、私も知っているつもりだ。それを厭わず、しかもこちらの誤訳や誤読を丁寧に指摘しながら――である。まったく頭が下がる思いである。




愚かな人生はある。不可解な生活もある。無価値な生もあるだろう。


小泉先生が寄せて下さった帯文の、この一文を読んで、とても先生らしいと思わず笑った。もちろん、本書の副題「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定に合わせて、書いて下さったことは分かっている。だがしかし、世間的もしくは一般常識的には、それが建前だと透けて見えていたとしても、「愚かな人生」や「無価値な生」というものはない(「不可解な生活」は、微妙なグレーゾーンかもしれないが)としておくことが多い。それが欺瞞であることを、正面から突き付けて下さった。

だから、私を含めた14人の執筆者は「狂える倫理」を、体の良い欺瞞をあぶり出すために、書きとめたのである。


採用されなかったが、狂気な倫理――「愚か」で「不可解」で「無価値」とされる生の肯定の英訳は Achieving Madness: For the Affirmation of "Stupid," "Perverse" and "Valueless". と表記するとのことだ。個人的にはAchieving Madness という言い回しが気に入っている。


人生、みな Achieving Madness だと思うから。


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