マイケル・サンデル氏×平野啓一郎氏 特別対談
昨夜、配信されたマイケル・サンデル氏と平野啓一郎氏の特別対談を拝聴した(無料公開されており、アーカイブでも観られる)。
正直、サンデル氏の著作は未読であるし、平野氏の作品を手に取るようになったのも、つい最近である。超の字がつくと言っても過言ではないであろう有名なサンデル氏と、作家(非研究者)の平野氏がどう対談するのかという野次馬的な興味からの視聴だった。
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不特定多数に向けたインターネット配信という点に考慮したのか、お二方とも建設的な議論でありながら、互いへの建設的な批判は避けているような印象を受けた(時間的制約もあろう)。
議論の主題の一つが自己責任論に絡む「能力主義」をいかに考えるか、だった。その要点は「能力=努力」になっているがゆえに、勝者(平野氏の言葉では勝ち組)の論理は『自分は努力したのだから、高い評価を得るにふさわしい』、逆に敗者は『努力が足りていないのだから、この結果は自分のせいだ』となるということだろう。
サンデル氏も平野氏も「能力主義」そのものは否定していない。「自己責任」と重ねられる点を批判している。「能力主義」がある種の「努力至上主義」に置き換えられることで、勝者は自分の中に生まれた傲りに気がつかなくなっていると、サンデル氏は指摘していた。その傲りとは(自分の)『”成功”には「運」という自分の力が及ばないものも、深くかかわっている点を忘れること』だ。野球の大谷選手が高く評価されるのは彼の並々ならぬ努力に加え、野球が人気という今の時代に存在しているからだという例が挙げられた(大谷選手に傲りがあるということでは、まったくない)。仮にイタリアルネサンスの時代なら、彼は今ほど評価されていないだろうとのことだった。
平野氏は『マチネの終わりに』において、イェルコ・ソリッチと洋子の会話で運命論を語っているが、これがここに繋がっている。蒔野がクラシック・ギターの世界で高く評価されたのは、彼の努力だけがあったのではない。「特にいいものに当たった才能」と、蒔野のいた時代が合っていたということだと、平野氏は言うだろう。そういうことである。
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議論の終盤では、一人の人間を評価する際、労働者としての価値(仕事の価値)に重点が偏り過ぎているということが挙げられていた。人間は多面的(消費者であったり、誰かの家族であったり)であるにもかかわらず「労働」をもってのみ、その人を価値づけようとすると。
これは、まさに「生産性」の問題に直結する。働いて、社会的もしくは経済的に価値があるとされるものを生産できることが”良い人間”だという話である。そうであるがゆえに、ケアワーク(介護や保育を含め)や、いわゆる家事労働に対する評価が極端に低くなる。それだけでなく、生産性がないとされる人間(たとえば、障害者や同性愛者)は、人でないというような評価が下ることもある。
結局、人間を多角的に評価していくということは、生産性以外に目を向けると同時に「生産性とは何か」を再考するという意味になるだろう。
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職業作家(専業作家)とは思えぬほど、研究者的な議論をされた平野氏に驚く一時間でもあった。ハイデガーに関するそれと言い、ある意味なかなか恐ろしい方かもしれない。
第二弾があるならば、今度はもう少し敢えて批判的にサンデル氏(ほかの人でも構わないが)と対談して頂きたいと思う。
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