「さくら」の想い
3日前に書いたnoteをきっかけに、森山直太朗さんの「さくら―独唱」をダウンロードした。
この曲がリリースされてしばらくは、爆発的ヒットと音楽チャート等でのロングランが続き、とても流行っていたので、自らの意志で聴くことはなかった。
それから十数年経ち、あらためて今聴いている。
まず、単純に思うのは歌うのが大変な曲であるということだ。キーが高い。地声が低く、裏声もあまり高い音は綺麗に出せない私には歌えない。これを原曲キーのまま歌った、あの先生は森山直太朗さんと同性で、同じ音域が出せたということだ。凄い。
さくら さくら 今 咲き誇る 刹那に散りゆく 運命と知って
言葉通り、散るのはあっという間でも咲き誇る桜を表した詞だ。だが、先生の話を聴いてから聞いたので、どうしても命のことばに聴こえる。
今なら言えるだろうか 偽りのない言葉 (輝ける君の未来を願う) 本当の言葉
高校生の頃から、ずーっと気にかかっている詞だ。
偽りとまでは言わないまでも、普段、言葉を抑えることで耐えたり、関係を維持したりしている。あの頃ではなく「今なら言えるだろうか 偽りのない言葉」。もし、あの先生と再会できたなら偽りのない、心からの感謝を言葉にしたい。
「本当の言葉」ほど伝えることが難しい言葉もないだろう。
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別離を歌いながら、再会を願う歌でもある。桜の季節でなくてもいい。この曲を聴くと決まってあらためて思い出す、あの先生と再会してみたい。
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