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ある愛(2)

Ⅰ 続く日常

自分の感情を自覚したからといって、何かが変わるわけではない。その翌日も、その人と顔を合わせたはずである(カレンダーを調べたら、翌日はまだ火曜日だった)。私はどんな顔をしていたのだろうと疑問に思うが、もう思い出せない。

人を強く想うようになると、他のことに手が付かなくなる…ということもあるようだが、そうはならなかった。むしろ、熱がこもるようになった。きちんとやり、他人以上の成果を出すことが、その人を想うようになったことに対する代償だと感じていた。


若い人間の心には、……頗る可燃性の高い部分がある。ある時、何かの拍子にその一端に火がつくと、それが燎原の如く広がって、手が着けられなくなってしまう(p. 106)。
恋がもし、そうしたものであるならば、土台、長続きするはずがなかった。その火は、どこかでもっと、穏やかに続く熱へと転じなければならない(p. 106)。
そして蒔野は、その彼女の、もうあまり燃えやすい部分は残っていなかったはずの心の中で、唐突に燃え立ち始め、勢いを増してゆく火だった(p. 107)。


『マチネの終わりに』の上記三つの引用部分には、恋と愛の差異が極めて明確に示されていると私は考えている。一つ目と三つ目が「恋」、二つ目が「愛」である。

その人と多くの時間を共有できた3年間、私は『マチネの終わりに』が示す「恋」と「愛」を行きつ戻りつしていたのである。


「穏やかに続く熱」が来ている時は、顔を合わせていても何も思わない。仕事中のその顔を見ながら、“どこに惹かれたのか”などと分析してみたりした。誰に対しても穏やかに優しく接する人なので、普通の意味で“良い人”であり、またその意味でモテていたが、それも当然だったし嬉しかった。さらに、「その人にとって大切な人を大切にする」人であることも、私には好ましかった。人前で分かりやすく表現するタイプではないが、言葉の端々に(大切な人を)大事に想っていることを感じ取れる人なのである。

逆に「唐突に燃え始め、勢いを増してゆく火」が点いた日は大変だった。私の同期にも人気のある人であったので、私の知らない面を見ている彼らに嫉妬したり、「勢いを増してゆく火」に自分で自分の手を焼き、”今日は会いたくない”という思いに難儀することもあった。


Ⅱ 闘い

定期的に顔を合わせていた3年間で「恋」も「愛」も吹っ飛び、最も緊張したのが成果を見せる時だった。正確に言えば、その人に成果を見せるのではない。自分の実力を知る機会なのだが、私にはそれが自分との闘いであると同時に、その人との(勝手な)闘いだった。

成果を見せる前には必ずそれまでの資料を提出し、チェックを受けることとなっていた。私は資料の余白に、そこやボードに書かれたこと以外にも口頭で言われたポイントをメモするのが習慣になっていた。時には自分のメモの方が多くなっていることもあった。大半は確認印をもらうだけだったが、そのメモを褒める一言が添えられていたことがある。その一言がどれだけ嬉しかったことか。褒められる以上に、ちゃんと見てもらえていることが嬉しかった。『メモいいね。その調子』手書きされた、この言葉だけで頑張れた。言葉の持つ大きな大きな力を知った、一つの経験である。

その人は、私に一定以上の実力があることを知っていたし、それに見合う成果を出してくるだろうと認識していた。私もそう思われていることは分かっていたから、余計に闘いだったのだ。見込まれている結果を出せずに失望されるのが怖かった。「できない」と思われたくないと思えば思うほど、怖くなった。もちろん入念に準備をしたが、やればやるほど「できなかったら、どうしよう」と不安を募らせていた。直前は真っ青な顔をして、周囲に大丈夫かと聞かれるほどだった。相当、自分で自分に重圧をかけていたのである。

それでも一年目は、期待されていたであろう結果を残していたし、私自身も納得のいく出来を収めていたから良かった。それゆえに二年目も、そう変わらない安定した成果を出せると思っていた。ところが、である。

二年目の春に行われた、最初のその時である。それまでより格段にやらねばならないことの量が増え、時間が足りなくなってしまったのである。最後まで行き着くことができず途中で終わっているのだから、満足のいく出来であるはずがない。結果を知る前に呆然とした。自分でも何をやっているのか、最後までやり遂げられないことが信じられず、終わった直後に泣いた。

初めての「惨敗」だった。その時点でもう十分にショックを受けていたのだが、結果が出た時にさらに追い打ちをかれることが起きた。結果を見て人目も憚らず泣く私に、その人は言った。「時間が足りなかったことを含めて、それがお前の実力だ」と。至極真っ当な指摘だが、当時の私には信じられなかった。まさか、あの人がそんなことを言うなんて。その時、初めてその人に対してカチンときた。悔しかった。その人に腹を立てたのは、この一回きりだったが「そんなこと言うの?じゃあ、絶対にぎゃふんと言わせてやる」と誓った(その後も、秋の半ば頃までは納得できる結果が出せず、涙することが続いたのだが)。

泣きの涙に濡れていた時に、厳しい言葉をかけられたことはショックだったが、後になってみれば、私の闘志に火を点けるために(敢えて)言ったのかもしれない。きっと、その頃には(その人自身)自分の言葉が私に与える力に気づいていただろうから。実際、私は、ますます心血を注ぐようになっていった。とても有難いことだが、その人の”作戦”?にはまったようで、今となってはちょっと悔しい気もするのである(笑)


Ⅲ 予想外の別れ

その人といられる3年という時間は、出会った時から増やせないものだった。同じ時間を共有できる最後の一年。その終わりは突然だった。

三年目の春のことである。担当の変更により、顔を合わせる機会が減ると決まった。3年周期で、その間は担当が変わらないというのが慣習だったにもかかわらず、それが適用されなかったのである。

青天の霹靂と言えれば良かったのだが、前年度の終わりに、私は何となく嫌な予感がしていた。”来年度は担当してくれる人が変わるかもしれない”と。そんな嫌な予感を打ち消しきれず迎えた春だった。そして、当たらなくていい不安が的中した。

予感はしても、予想はしていないものである。実際は別の人から告げられたのだが「なぜ?」としか言葉が出てこなかった。その人に対する「恋」や「愛」を別に措いても、ずっと支えられて、支えてもらってきた私には(その人が)いないなど考えられなかった。ただただ(その人がいなくて)”私はどうしたらいいの”ということだけで、心がいっぱいになっていた。

はた目にも、落胆ぶりは明らかだったようで、のちに「(私を)あのまま放っておいて大丈夫なのか」ということが話題になったと聞いた。新年度とともに、新たな担当者の下でスタートしても、ゆうに1ヵ月ぐらいはうわの空だった。話を聞き、メモも取るが、さっぱり身が入っていないと自分で分かっていた。

「この世の終わり」という顔をして、絶望の淵にいた私を助けたのは、やっぱりその人だった。週に一度だけその人が担当するものがあるので、それに参加することにしたのである。当時の私からすれば出る必要はないものだったが、一緒にいられる時間が少しでも増えるなら、何でもよかった。

何よりも辛かったのは(その人が)「いるのに、私(たち)の担当ではない」ということだった。異動で完全にいなくなるというのなら諦めもするが、近くにいるのに遠くなることが耐え難かったのである。

(以下、別稿へ続く)











参考文献:平野啓一郎,2019,『マチネの終わりに』文藝春秋.




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