パラレルワールドの私たちへ
生きづらさは社会のせいなのだろうか。
僕は自分がどの時代に生きていても生きづらかっただろうなと思う。
僕は生きづらさを抱えたまま、それを陶冶することによって、時々やってくる「ユリイカ!」に期待している。世界の真理に触れる喜びを噛み締められる。
もちろん苦しい。しかし、もし生きやすくなってしまったら、僕は何を生み出せるだろう。
僕はいつどこに、何度生まれ変わっても生きづらかっただろう。
そして、僕はそれを肯定する。それによって、僕は全ての並行世界の〈僕〉を全面的に肯定する。
(並行世界;私たちの宇宙の外側には、私たちと少し違う、でも確かに私たちが存在する宇宙が無数にある)
時代のせいにも他者のせいにも社会のせいにもできない。
彼ら彼女らがなんであれ生きづらく、にも関わらず、僕はこの生を肯定する。
ここに書いてあることはポジティブ思考とはまるで関係がない。
むしろ真逆である。完全に深く絶望すること。
その先に、小さく、しかし全面的な肯定がある。
社会や他者に責任を帰属させることは、もし環境が異なれば幸せな〈僕〉がいたことを並行世界のどこかに認めているのである。それではだめだ。
僕は僕が描くユートピアが現実になったとしても深く絶望するだろう。
絶望の由来は外的要因ではなく、内的な実存の過剰さ(自己幻想)にある。
だからこそ、夢を叶えたはずのロックスターやセレブリティはドラッグに走り、自殺する。
僕はこの過剰さをも陶冶する。そしてその手段のことを制作と呼ぶ。
コンヴィヴィアルな道具を制作し、生き延びる技術。
そしてこのことが「愛」の過剰性の問題に繋がる。
良い価値を並べて、自らを肯定したり、良い属性を並べて、他人を肯定することは「愛」ではない。
むしろ、全面的に「終わってる」にも関わらず、この人生を全面的に愛すること。
社会的に良い属性がないにも関わらず、なぜかその人を愛してしまうこと。
説明不可能性がいたるところにあるがゆえに僕たちは救われる。
小沢健二「流動体について」を引用して終わる。