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カール・シュミットと「仲良しごっこ」

前回のnoteでは、目的的な姿勢が取りこぼしてしまう、サークルの存在意義について論じた。加えて、大切な心構えみたいなものについても少しだけ触れた。

「コレクティフ」のコアとなる定義を、今一度おさらいしておこう。

何らかの集団において、その構成員である個々人が、自分の独自性を保ちながらしかも全体に関わっていて、全体の動きに無理に従わされているということがないという状態

ジャン・ウリ『コレクティフ』、2017

できる限り少ない目的性の中で、集団の構成員の個々人が目的的な義務感に苛まれることなく、イキイキと動けている。それが結果として全体のまとまりを構築している状態だ。

ジャン・ウリは制度精神療法を通して、ラ・ボルド病院のサークル活動においてコレクティフを実現のものとした。

現代のベンチャー企業にも、少数ではあるがコレクティフであるとか、ティール組織に近い組織形態を採用する企業が増え始めている。

ただこの難しさに気づいている人は、きっと賢い。

まずは目的性に支配された、現実の社会を見渡そう。
飲みニケーションとかいって、実際は偉い人に媚びへつらいながら、会社用の仮面を被らないと生きていけない会社の飲み会。

例なんてこれ一つで十分だと思う。私は飲み会がめちゃくちゃ苦手だ。自分に嘘をつけない性格だ。
加えて人狼とかも苦手だ。なんで仮面を被って人を騙さないといけないのか。

では、コレクティフを目指して目的性や義務感を限りなく少なくした、ありのままの自分でいられる状態。それだけでユートピアになるのだろうか?

答えは「ノー」だ。

なぜなら人には「いじめの本能」があるからだ。

人はいじめをやめられない。子どもの時からいじめて(いじめられて)、それは社会に出ても続く。自分の所属している組織の目的性を見失えば、すぐに人間は内ゲバを始める。その組織集団の中で、いかにうまく立ち回るかのゲームが始まる。

もっとマクロに見れば、国民国家というものも、そういう意味でガタが来ている。

国民国家はナポレオンが生み出した概念であり、戦争のための装置だ。かつては傭兵を雇うことが主流だった西洋の戦争において、国民をナショナリズムで喧伝し、敵国を共通敵として一体となることで国民自身が兵隊となる方が強いことに、ナポレオンは気づいた。

そして戦争を繰り返すことで国民国家は強靭なものとなり、当たり前の社会制度となった。

でも、今の日本に戦争はない。国家のイデオロギー(共同幻想)に包摂されていた日本人は、社会に対して個人がむき出しの状態で放り出されることとなったのである。加えて核家族化からおひとりさまへの流れもこれを加速させた。

その着地点としての現代社会はどのようなものかというと・・・
・自分を如何によく見せられるか?(自己幻想)
・自分の結婚相手に何を求め、求められるか?(対幻想)
幻想的な義務感に苛まれた状態であることには変わりないものの、その主体がより個人と目の前の相手に移り変わった状態なのだ。

ここまでが戦後日本の、安保闘争前後の流れである。巨匠・吉本隆明の論じた「共同幻想論」に詳しい論述がある。

ここまでの話を整理しよう。個人が共同体に包摂されず、おひとりさまとして社会に出ていくのが現代の日本社会だ。そして私たちの主要な価値観というのは、極端に言えば「政治は嫌いだけど、自分のこと大好き!身の回りのイケメン・美女・ゴシップ大好き!脱毛しよう歯科矯正しよう!」ということだ。

みんな幻想に支配されている。
もっとイケメンになれたら、可愛くなれたらいいのに・・・という自己幻想。
目の前の人間に過度に期待する、対幻想。

そんな社会を私は否定するつもりはない。しかし、そこで往々にして始まるのは、内ゲバだ。その組織集団の中で、如何にうまく立ち回り、自分をよりよく見せるかのゲームだ。

Twitterはその分かりやすい例かもしれない。自己幻想(ツイート)、対幻想(DM)、共同幻想(タイムライン・トレンド)という三拍子揃った幻想に支配された空間だ。
そしてその中で、如何に自分をよく見せるか?如何に叩かれないように立ち回り、叩く側に回るか?を常に考えざるを得ない。

それを世界で1番うまく利用した人がいる。

その名は「Donald J Trump」という。前アメリカ大統領だ。

彼は中南米からの移民を共通敵として設定しながら、Twitterを最大限に活用して米国民の約半数から熱烈な支持を受け当選した。
国会議事堂への襲撃事件も煽動した。ポスト・トゥルース時代の幕開けだった。
こうして、アメリカという国民国家の政治と民主主義は崩壊した。

話を最初に戻そう。目的性を最小限にすることはコレクティフの実現に欠かせないことだ。しかし懸念されることがある。

それはトランプのような「極めて利己的だが賢いカリスマ」の出現に対して無防備であることだ。すぐに共通敵が設定され、誰かを叩くことで分断を促し、それによって仲間意識を醸成しようとする。

トランプも利用した、カール・シュミットの「友敵図式」だ。

そして誰かが叩かれて泣く。
みんな叩かれる側にならないように、サークル用の仮面を被る。
居心地が悪くなってサークルの集まりは悪くなり、脱退者が続出する。

そんなうわべだけの「友達ごっこ」を繰り広げる組織に残るのは・・・
私は「クズ」だけだと思っている。

友敵図式ではなく、愛と信頼で結ばれた共同体感覚を醸成していくことが、コレクティフには必要な条件だ。
かつ、友敵図式を許容しない強い意志は、受け継がれ続けなければならない。

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余談だが、ここでひとつの矛盾を感じる人は鋭いかもしれない。
友敵図式を行う人を排除することも、立派な友敵図式ではないのか?と。
実際にこの指摘を受けたことがある。

2つの考えを紹介しよう。そして最後にある歌の歌詞を引用して終わろうと思う。

1.「戦う民主主義」

これは長くなるので、Wikiの引用でご勘弁を・・・

戦う民主主義(たたかうみんしゅしゅぎ、: Streitbare Demokratie, : Defensive democracy、防衛的民主制(度))とは、戦後の(西)ドイツ連邦共和国基本法(ドイツ憲法)などで規定された、自由民主制度を破壊しようとする自由の敵には無制限の自由は認めないという理念に基づいた民主制であり、共産主義(コミュニズム、マルクスレーニン主義)やファシズムなど自由民主制を否定する言動への自由・権利までは認めない[1][2]。防衛的民主制国家の例として、(西)ドイツ(1990年10月2日に東ドイツを吸収し、ドイツ連邦共和国)は1956年憲法違反としてドイツ共産党を解散させている[1][2]

https://ja.wikipedia.org/wiki/戦う民主主義

多様性を大事にするならば,差別主義者もそこに包摂されるべきだというパラドックスが存在する。しかし「戦う民主主義」において,それは通用しない。

サークルで言い換えるならば、愛と信頼で結びつく共同体やコレクティフの実現に関して、友敵図式を用いた人間に対しては厳しくあたっていいよ、ということだ。ナチスドイツの歴史からの反省が根底にある。

2.ファシリテーターの心得

ファシリテーターって、実はすごく難しい。
必要とされる技術は山ほどある。並の人間に務まる仕事じゃない。

その中でも抜粋したいのが、「個人の損得勘定で規定された人間や、おかしいことを発言する人間がいた場合、ファシリテーターが率先してその圧倒的な知識量で反論をしながら、該当人物の立場をなくして発言権を弱め、自発的な退場を促す」ことだ。

愛と信頼で結ばれ、仮面を被る必要のない居心地の良い場所。
最低限のゆるい目的性のもとに、ありのままの個人でいることが、結果として全体を構成するコレクティフ。

これらの実現のためには、時としてファシリテーターが最後の砦となって、
友敵図式と戦うことも必要なのかもしれない。

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ここまでの2つの記事を踏まえた上で、星野源「くだらないの中に」の歌詞を引用して終わろう。

髪の毛の匂いを嗅ぎあって
くさいなあってふざけあったり
くだらないの中に愛が
人は笑うように生きる

魔法がないと不便だよな
マンガみたいに
日々の恨み 日々の妬み
君が笑えば解決することばかり

首筋の匂いがパンのよう
すごいなあって讃えあったり
くだらないの中に愛が
人は笑うように生きる

希望がないと不便だよな
マンガみたいに
日々の嫉み とどのつまり
僕が笑えば解決することばかりさ

流行に呑まれ人は進む
周りに呑まれ街はゆく
僕は時代のものじゃなくて
あなたのものになりたいんだ

心が割れる音聴きあって
ばかだなあって泣かせあったり
つけた傷の向こう側
人は笑うように

髪の毛の匂いを嗅ぎあって
くさいなあってふざけあったり
くだらないの中に愛が
人は笑うように生きる
人は笑うように生きる

星野源「くだらないの中に」

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