『千両役者浮世嘆』 第十六幕
第十六幕
ヤクザふたりを前にして、それでも俺は恐怖しなかった。余裕、余裕と笑った俺の影がリビングの中に、俺のそばにいて、そいつが力をくれたのかもしれない。俯瞰している感覚。現実味がない。
サングラスがいった。
「けじめをつけるっていってもね、別に殺しはしない。日本の警察ってけっこう優秀なんだよ。殺したら割りに合わない」
直立不動のアロハが頷いて聞いている。
「だからさ、一本だけもらおうかな」
これがツケの払い方なのか、と思い、ニヤニヤ笑う影に勇気づけられ、俺はテーブルの上に右手を置いた。
開かれた手を見て、ん? とサングラスがいった。
「何してんの?」
「いえ、一本ですよね」
少しの間黙っていたサングラスは、ああ、はいはい、といった。
「指じゃないよ。知ってた? 指をやると俺たち捕まっちゃうんだよ、傷害罪で」
「じゃあ、一本というのは……」
「一千万円だよ」
そういって部屋を見回す。きれいに使ってるよねこの家、という。
「売ればそのくらい作れるんじゃないかな」
「いえ、親が買った家なので、それは」
関係ねえだろ、とアロハが呟いた。
「払えないかな」
黙り込む俺をサングラス越しに見ているようだ。どんな目つきをしているのだろう。
「けじめなら俺だけでお願いします」
「かっこいいな。いいねボタン押したい」
つまらなそうな声でサングラスがいって、じゃあまあ、と話をまとめにかかった。俺がテープで稼いだすべてのカネを払うことになった。
「正直、一本もらわなくてもけじめだけつければいいんだ。いくら持ってんの?」
「百万以上は」
アロハが妙な顔をした。驚いたのだろうか。
「どこにあるの?」
「俺の部屋に」
持ってくるようにといわれ、見張りにアロハがついてきた。リビングから廊下へ出て、部屋へ入る。
引き出しを開ける。輪ゴムでまとめた札束を見て、アロハはまた複雑な表情だ。
「これ、お前ひとりで稼いだのか?」
「だいたいは」
そして札束を手に取り、アロハはうなった。他にはもうないのかと訊かれた。これで全部ですと答えた。
念を押された。
「もうないんだな?」
ありません、と答えそうになったが、ポケットの中の札を思い出し、それを渡した。アロハはそれ以上は追求せず、俺たちはリビングへ戻った。
サングラスはテーブルの上に手を組んで待っていた。アロハがカネを手渡した。うん、と頷いて、札束のシワを伸ばそうとした。
「すごいなあ、明日朗君。才能あるよこれ」
そういわれても返事に困る。
「商才は大事だね。俺らのやることでも商才が必要なんだよ」
商才ってどういうことだと思う? と訊かれた。わかりませんと答える。
「演技力だ。立ちふるまいが全部なんだ。だからさ」顔を近づけてきた。「行くところがなかったらウチへおいで」
君は稼げると思うよ、とサングラスは内ポケットから名刺を出した。組の名前などが書かれてある。それを俺に手渡し、椅子から立った。その後、誰も喋らないまま、ふたりは玄関へ向かっていった。なんとなく見送る。
ドアを開けて振り向いたサングラスが、何気なくいった。
「ああそうだ、次に勝手やったら殺すからね。じゃあまた」
ドアが閉まった。
ふっと脱力した。気づかないまま緊張していたのだろう。だが乗り切った。カネをすべて失ったのはつらいが、仕方ない。
笑う影はいつの間にか消えていた。
次の日、普段通り学校へ行く。保健室に直行し、ダラダラと過ごした。タチバナ先生にカネを失ったことなどを話した。が、どう答えればいいかわからない様子だった。
自分の分身のようなもの、俯瞰する影のようなもののことも話した。
「解離かもしれない」タチバナ先生はためらいがちにそういった。「虐待を受ける子が、これは自分に起きていることじゃないと否定する作用なんだけど」
「そういえば昔、医者に」といいかけて、処置を受けたときのことがフラッシュバックした。押さえつけられたこと、叫んでいるのに自分に聞こえていない、痛すぎて痛みがわからない。
めまいがした。音が遠のく。見ている風景が色あせる。
タチバナ先生は俺を抱きしめた。
(続)