イ・ラン with オンニ・クワイヤ@渋谷WWW
歌詞が書けない。この3年程、正直歌詞を書くことが苦痛で仕方がない。好きな音楽家の歌詞を読んでいると(また、それらが受け入れられる時代の風潮を感じようとすると)オーセンティックなものが年々求められているように感じる、それは正直さとも言い換えることができるかもしれない。もっと言うと音楽の中でも選び抜かれた正直さ、真っ当さを歌詞に対し切実に求める人達が増えているのではと最近は考えることが増えた。そういうことを日々考え出すと余計に歌詞が書けなくなっている。そのくせ日々、感じることをつたらつたらと書いているのだから自分でもよくわからないことが多い。曲を作るって、一体なんだったっけ?という数ヶ月を腕組みしながら過ごし、お菓子ばかり食べていた。
そんな折、8年振りにイ・ランのライブを観た。(前回は渋谷7thfloor、柴田聡子との共演だった)イ・ランwithオンニ・クワイヤ、彼女(彼)達のステージ後方には韓国語と日本語の歌詞が映しだされる。最初は目で追っていたが言葉だけが持つ強さから逃れられなくなりそうで、途中からステージにいる皆さんの手元を注視しながら音楽を聴いた。「オオカミが現れた」や「対話」「意識的に眠らないと」「ある名前を持った人の一日を想像してみる 」を聴きながらイ・ランの引くギターの運指をずっと見ていた。難しくないコードの往来の中で他の楽器との音の重なりが徐々に大きなウネリを生んでいく、ただそのシンプルなことに私は深く感動していた。同時に脳裏にはルー・リードがぽわんと浮かんだ。
「modern dance」「Perfect Day」または、「Walk On The Wild Side」や「Magician (Internally)」が思い起こされた。
私にとって彼女のうた(言葉、歌詞)はルー・リードを彷彿とさせるんだと思った。「似ている」ということではない。文学的という一言に集約するものでもない。自分の暮らす社会、国、街。そこで生きる、行き交う人たちのある1日、その時々の思考。目に映るもの、つまりは日常をただ書いている。「ただ書いている」というと、簡単そうに聞こえるでしょうか。いやいや誰でもがそうできることではない。日常は誰もが過ごす、素通りすることもできるただの1日でしかない。その、「ただの1日」が持つ尊さをわざわざ書くことの意義を見つけること、なんでもないことの重要性を具体化しようとすることに人は意外にもおざなりで、もっと特別な「何か」を求めようとする。
ステージ上、ミュージシャン然とした態度でもないイ・ランの佇まいやお喋りは観衆という視点でフロアにいる人達を見ていない。それが何故かとても新鮮だった。どこかの国のどこぞの街、駅前の大広場で演奏を始めたら行き交う人たちが徐々に立ち止まって聞き入っています。いつの間にかそれはひとつの集合体になり意味を持ち始める。という光景が浮かんできた。私は久しぶりに身体全部で感動し、大きなため息が出た。
喫煙所で一服しながら、曲を作るって、なんでもよかったはずだったと思い、終演後、Sweet Dreams Press福田さんを介し初めて彼女と挨拶をした。笑顔が印象的だった。帰路につく途中、何故でしょうか、脳裏にはなだいなだの『人間、この非人間的なもの』冒頭「平易な言葉で語れるということこそ、認識の深さの指標である。−ヴェッセル」が浮かび、歌詞を書くことの苦痛は過信からくるものなんだと言葉にして、酒を飲みに新宿へ急ぎ足。
忘れられない、印象に残っていく夜(演奏)というのは、非日常的なものが多いと思っていた時もあったのですが、昨今の日常・平坦な日々は常に患難であるということを感じながらその日常を綺麗事にせず、「そうでしょう?そうだよね、私達今の時代を健全に在ろうとなんとか生きていますね」と、励ますでも慰めるでもなくただ、あるがままに提示すること・されること、まずは肯定することに深く共感しいつまでも残り続ける。
与えるではなく、全ては等しく皆のことでもあると思います、一緒に考えましょう?という中庸さがある。いい夜だった。
彼女の書くもの、音楽を愛読・愛聴している中で、インタビュー記事(公研2019掲載)の発言が印象に残っている。
「私のつくるものは日常的に自分の人生を生きていながら、感じていることをただ綴っていくだけのことだと思っています」
自分の人生を難しくするのは自分自身だったりしますが、この一文はそれをほどくに充分な言葉だと思う。