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わたしのすきなひと(番外編)

季刊誌『黒猫』にて掲載していた「わたしのすきなひと」より転載。


今回は番外編で喫茶店の話。
2007年、東京で暮らすようになって喫茶店に通うようになった。
多い時で週に5日、少なくても3日は喫茶店に出向いていた。今でもよく打ち合わせ等に使うのは新宿「西武」「らんぶる」「ピース」同じく新宿は3丁目にあった「沙婆裸(サハラ)」(ちなみに店名は漫画原作者の小池一夫さんが名付け親だったそう)にはよく通っていた。
六本木にあった「貴奈」はわざわざ行きたくなる喫茶店だった(“御用の節は白いロウソクに灯りをつけてください”と書いてあるプレートがテーブルに置いてあり、マッチをすってロウソクに火をつけると店員が注文を取りにきてくれた)新宿御苑にある「PONY」もいい。特に目的もなく街をブラブラ歩いてレコード屋や本屋に入り、いい出会いがあれば購入しその後、休憩がてら喫茶店で一服というコースがお決まりなのだが、連れとゆっくりお喋りを楽しむ時、一人になりたい時や何も考えたくない時、またはその逆、考えているものごとの中に深く浸かりたい時など、喫茶店は本当に重宝する場所であり、他のお客さんの会話を聞くでもなく聞いている時間なんかも好きだ。自分がよく通う街にひとつ、贔屓の喫茶店があるだけでなんとなく安心感がある。高円寺「ポエム」「ネルケン」渋谷「トップ」「シャルマン」「カフェ・シャリマァル(閉店してしまったが店内から望む景色が好きだった)」どこも大好きな場所だ。



JR飯田橋駅東口を出てすぐのビル2階にあった「喫茶 白ゆり」(2009.7閉店)はお気に入りの場所だった。店内に入って直ぐ、大きなステンドグラスにフラミンゴの絵が施されていて気に入っていた。私が出入りしていた時間はだいたい午後3時過ぎ、200席はある広い店内、客はサラリーマンしかなく、人もまばらでそれも気に入っていた。窓際に腰掛け珈琲を頼み、目線の先、向かいのホームに流れ込んでくる電車や人様の一律な動きをひたすら眺めることで意識がフラットになっていく。ここでは店に置いてある新聞の類をよく読んでいた。気になる時勢の記事をメモし、そこから歌詞を考えるなんてことも試したりしていた。

 ある日、いつものように白ゆりに出向き、店を後にして帰宅後、シガレットケースがないことに気づいた。ニッケルで出来たケースには模様が施され、煙草が14本入るドイツ製のシガレットケースで、20歳の頃、恩師でもあるレコ屋の上司から頂いて以来、肌身離さず使っているものだった。慌てて白ゆりに電話をするも「探してみましたがありません」と返され、何処かで落としたのかもしれないと思い当たる場所や辿った道を探すもやはり見つからず、自分の不注意に腹が立ち数日落ち込んで過ごしていた。それから1週間ばかりして白ゆりを訪れた時、店員の女性に「シガレットケースやっぱりないですよね?」と声をかけた。すると「ああ!これ……」差し出されたのは私のシガレットケースで「これです!私のです!ありがとうございます。以前電話した時はないと言われたんです」「あ、そうなんです私が対応したんですが本当になくて、それで、いつもお客様がお座りになる席、別の常連のお客様が座られるんですがその方が気付いて持って帰られてたみたいで」

「?」と思ったのだが話の続きを聞くと、その男性は私が店を出た後、暫くして来店し同じ席に座ると、椅子(ビニールソファ)の隙間にシガレットケースを見つけすぐ店員に預けようとしたのだが自分の煙草を忘れてきたことに気づき、店内で買うこともできたがケースの中の煙草が自分も嗜む同じ銘柄だったので私のシガレットケースから数本拝借してしまった為、なんとなく気後れし一度持ち帰ってしまったとのことだった。正直な人もいるもんだと思い、シガレットケースを開けると14本入っていた。「あれ?私数本しかなかったはず……」「その男性のお客様が、すいません、ありがとうございましたと伝えて下さいとのことでした」店員はそう言って持ち場に戻っていった。私はシガレットケースが見つかったことも嬉しかったが、それよりこの一連の出来事に心がくすぐられるというのか、高揚とは異なる心の静かな揺らぎを感じ始終気分がよかった。

その男性がどういった人なのか、何も知らないまま今に至るけれど、白ゆりでの印象深い思い出のひとつであり、些細な日常の積み重ねが私の人生に物語や綾どりを与えてくれるんだなと思う出来事でもあった。
喫茶店という場所を発端にした、人様からすればささやかで取るに足らない程度の物語がいくつかあって、1日の切れ端の様な出来事を時々思い出しては「もう東京で暮らすの嫌だな」と思う時、「もう少し、がんばろうかな」と前向きな気持ちに変えてくれたりもする。

見ず知らずの男性が持つ真心に触れた様な気がして、勘違いでも今はなき「喫茶白ゆり」を思い出す時、どこの誰かもわからない男性を「わたしのすきなひと」のひとりとして心に留めている。(2022.6.26)

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