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SNS言論闘争のクラウゼヴィッツ的整理

みなさんこんにちは。1976newroseです。

大変ご無沙汰しております。本業が大変忙しく、だんじり祭りのような日々を送っており、なかなかモノを書く気力が湧きませんでした…

さて本日のテーマは、【SNS言論闘争のクラウゼヴィッツ的整理】です。

クラウゼヴィッツ『戦争論』といえば、戦争という複雑怪奇な現象を哲学的に整理することを試みた、19世紀初頭の名著です。

著者クラウゼヴィッツはプロイセンの軍人で、本著はプロイセン陸軍大学校の校長として勤務していた頃に記された原稿が、彼の死後に妻のマリーらによって編集されて世に出されたものになります。

本著は、あくまでも草稿群を後世の人々がまとめ上げたものであること、また特に「戦闘」についてはナポレオン戦争の頃の技術が前提となっていることから、今日では一般性を失っている記述も多くみられます。
しかし「戦争とは何か?」を哲学的に論じた第一章は、いまだに戦争「そのもの」について、極めて優れた分析と説得力を持つ内容となっています。

さて今回は「SNS言論空間における闘争」という、クラウゼヴィッツが想像だにしなかったであろう戦闘領域における闘争について、クラウゼヴィッツの慧眼を引用しながら、その特徴を理解することを目指します。
※なお、初めに断っておきますが、私はSNS言論は主に社会学の領域であると考えており、またその領域について私は全くの素人です。そちらにはそちらの優れた論理が存在するはずですので、興味を持たれた方はぜひご参照ください。また本稿についての批評もお待ちしております!

それでは参ります。
(私がクラウゼヴィッツを正しく理解できているという前提で、)クラウゼヴィッツ的な整理に基づく「SNS言論空間における闘争」の特徴は、以下の3つに収斂すると考えています。

①SNS言論空間は、哲学的には戦争の一領域である。
②SNS言論空間における闘争は、哲学的には「絶対戦争」に近い形態をとる。
③SNS言論空間は、政治的意図を持った集団がその実現のために戦う戦争とは異なり、万人がその政治的意図を達成するために万人に対して行う闘争空間であり、その闘争の政治的妥結はおよそ不可能に近い。

順に解説して参ります。

①SNS言論空間は、哲学的には戦争の一領域である。

クラウゼヴィッツは、戦争「そのもの」と、戦争「のためだけのもの」という2つの概念を用いて、戦争「そのもの」とその他あらゆる事象・領域との関係性を説明しています。
(なお私は、戦争を構成する諸要素は、必ずしも戦争「のためだけ」に利用されるわけではないことから、戦争「に関するもの」という表現がより適切ではないかと考えています。以下の記述では、戦争「に関するもの」という表現を使わせて頂きます)

ざっくり申し上げるならば、戦争「そのもの」は、およそこの世に存在するあらゆる戦争「に関するもの」から、その有用な結果のみを取り出して利用する哲学的特徴がある、という指摘になります。

これは実例をいくつかお示しすれば容易にご理解いただけると思います。

まず古典的(物理的)な戦争から参りますと、
戦争目的の策定と開戦の決定=政治学、戦費の調達=金融工学、敵兵の殺傷=生物学、自国の兵の治療=医学、銃砲の作成=工学・化学・材料学、銃砲の使用=物理学・数学・気象学、兵站の維持=数学、野戦築城=建築学、部隊間の連絡=通信工学、騎兵の維持=動物学…
といった具合です。これらは容易にご理解いただけると思います。

更に重要なのが、近年、中国やロシアを中心に盛んに議論される、新しい(非物理的な)領域における戦争です。中国においては「超限戦」、ロシアにおいては「非線形戦争」、これらの指摘を西側が分析・整理した「ハイブリッド戦」という名称でそれぞれ呼ばれることが多い、従来は戦闘領域とはみなされていなかった「新しい」戦闘領域になります。
ここでは中国「超限戦」に整理された分類を中心に引用します。

テロ戦・生態戦・外交戦・インターネット戦・情報戦・心理戦・技術戦・密輸戦・麻薬戦・模擬(威嚇演習)戦・金融戦・貿易戦・資源戦・経済援助戦・法規戦・制裁戦・メディア戦・イデオロギー戦・歴史戦…

あまりにも多いので個々の説明は避けますが、これらのいずれも、現代では戦争に動員されていることがお分かりいただけるのではないかと思います。

まだピンと来られない方のため、また上記の整理に反感を持たれる方のために、より踏み込んでかなり意地悪な論の立て方をすると(★私が意地悪なのではありません、戦争「そのもの」はあらゆる領域からその有用性のみを取り出して利用するという、最悪な哲学的特徴を持つ、というだけです。誤解なきよう)、たとえば戦争とは全く正反対に見える反戦平和運動なども、侵略を企図するA国が、敵国B国の国民全体から抗戦意思を削ぐためのプロパガンダとして利用する可能性は否定できないわけです。(誤解されそうなので再度申し上げます、★印の一文をご確認ください。私個人が意地悪なわけではありません。)

このように、戦争はいよいよ、およそこの世に存在するあらゆる領域からその有用性のみを取り出し、利用しようとしています。むしろこの定義に当てはまらない領域があるのであれば、是非教えて頂きたい。

今次のウクライナでの戦争においても、SNS言論空間は両陣営の正当性を主張する場として利用されています。

このように、他のあらゆる領域と同様、SNS言論空間も哲学的には戦争の一領域であると言わざるを得ないでしょう。
クラウゼヴィッツはTwitterなど夢にも想定していなかったでしょうが、彼の指摘は、SNS言論空間についてもその主張の妥当性を補強する結果となってしまっています。

②SNS言論空間における闘争は、哲学的には「絶対戦争」に近い形態をとる。

それでは、SNS言論空間における闘争は、どのような特徴を持つのでしょうか。
ここでもクラウゼヴィッツの説いた、陸戦についての整理がおおむね援用できると私は考えています。
クラウゼヴィッツは、戦争とは「ほかの手段をもってする政治の継続にほかならない」、つまり「戦争は政治的目的を達成するための手段の一つ」だと喝破しています。
そして政治の手段としての戦争は、その意図を敵に強制するために、以下の3段階を踏むと彼は考えました。

①敵の戦闘力の撃滅。
②敵の土地(策源地)の占領。
③敵の意図の破砕。

これは19世紀当時の陸戦を念頭に置いた整理で、具体的には、
①野戦による敵陸軍の撃滅→②敵が戦争を継続するための資源を得る根拠である土地の占領→③敵の継戦能力を削ぐことによる敵の政治的意図の破砕(こちらの政治的意図の強制)、という3段階です。

この整理をより端的な言葉で表現するとすれば、次のようになるでしょうか。

①戦闘力
②策源
③意図

さて、この整理をSNS言論空間に当てはめてみると、陸戦を念頭に整理されたはずのクラウゼヴィッツの指摘が、極めて明瞭な視座を与えてくれることがわかると思います。

①戦闘力
SNS言論空間における戦闘力は、さしずめ「主張の正当性」そのもの、また「影響力=主張が受容される度合い(いいね、リツイートの数など)」と言えるでしょう。
これらは基本的には、アカウントごと削除されたりしない限りはSNS言論空間上に半永久的に記録され、影響力を保持し続けます。
従って、陸戦とは異なり、SNS言論空間における戦闘力は基本的には「攻撃はできても撃滅はできない」でしょう。

②策源
では、SNS言論空間における策源はどうでしょうか。
戦闘力の根源となるのは、SNS上に存在する各アカウント、もっと言えばアカウントを運用する「個々人」ということになるでしょう。SNS言論空間における戦闘が、現実空間で相手方を「撃滅(=存在しない状態)」できることは考えづらく、策源についても「攻撃はできても撃滅はできない」ということになるかと思われます。

③意図
それでは最後に、意図についてはどうでしょう。
SNS上においては、上記①②で整理した通り、その発言も発言者も「攻撃はできても撃滅はできない」というのが妥当な結論と私は考えます。
であれば、①②を順に撃滅した末に達成される「敵の継戦能力を削ぐことによる敵の政治的意図の破砕(こちらの政治的意図の強制)」についても、基本的には達成できないだろう、というのが私の結論です。

ここで皆様に悲報がございます。
ここまでの説明は、すべて本節の結論「SNS言論空間における闘争は、哲学的には「絶対戦争」に近い形態をとる。」を導くための下準備です。
もう少しお付き合いくださいませ。

クラウゼヴィッツは、戦争を「絶対戦争」と「制限戦争」に整理しました。

●「絶対戦争」=概念上、哲学上の戦争形態
クラウゼヴィッツは、哲学の世界における戦争は、政治的意図を敵に強制するために、論理的には無制限の暴力が行使される行為であるとしています。
その政治的意図が達成されるまで、戦争は哲学的には全く制限なく行われる、というのが彼の議論です。

●「制限戦争」=現実の戦争形態
一方、現実の戦争には当然、現実の諸問題が付きまといます。
兵力の限界、補給物資の限界、戦費の限界、政治的妥協の欲求、道徳的な呵責…これらによって、現実には戦争は、一定の制限を課された状態で遂行される、というのがクラウゼヴィッツの考えで、これを「制限戦争」と呼びます。

さて、SNS言論空間における闘争には、どのような「制限」が課されるでしょうか。
これまで見てきた通り、SNS言論闘争においては、①戦闘力②策源のいずれについても完全に撃滅することは事実上不可能と思われます。
また、人間1人に対して1アカウント、Webに接続できる機器、自分の意見を言語化する能力、さえあれば、その①戦闘力②策源とも、ほぼ無限に近い形で動員しうるのがSNS言論闘争の特徴です。(もちろん策源としての地球上の人間の数は有限です。しかし、地球上の全人口を兵士として訓練し、物理的な戦線に立たせることの困難と比較すると、SNS言論空間における策源などはほぼ無限に近い、といって差し支えないでしょう)

従って、クラウゼヴィッツのいう「制限」は、SNS言論闘争においてはほぼないものに近いといえ、闘争の形態としては「絶対戦争」に近いのでは?というのが私の結論です。

ただしこの点については、少々議論が雑な気もしております。なぜなら、SNS言論空間を担保する運営法人、国家、国内法などを一切考慮していないからです。アカウントの凍結等に関する議論も踏まえておりません。
またSNS空間として私が主に想定しているのはTwitterですが、Twitterが全世界70億人からのアクセスを担保できているわけではありません。これらの点については批判をお待ちしております。

③SNS言論空間は、政治的意図を持った集団がその実現のために戦う戦争とは異なり、万人がその政治的意図を達成するために万人に対して行う闘争空間であり、その闘争の政治的妥結はおよそ不可能に近い。

最後に、クラウゼヴィッツの重要な指摘「戦争は政治的目的を達成するための手段の一つ」を引き合いに出しながら、「SNS言論空間は、政治的意図を持った集団がその実現のために戦う戦争とは異なり、万人がその政治的意図を達成するために万人に対して行う闘争空間であり、その闘争の政治的妥結はおよそ不可能に近い。」という結論に向かって論考してまいります。

政治的妥結が行われるためには、当然そこには、2つ以上の政治的な意思決定を行う主体が存在する必要がありますよね。
しかしSNS言論空間は、個々のアカウント(とその背後に存在する何らかの人間)が、まったく並列に存在する空間です。
もちろん国内法規やSNS運営元のガイドラインによる一定の制約は受けますが、基本的には万人が万人に対して闘争を挑むことが可能な、アナーキーな空間と言えるでしょう。
従って、ある一定のアカウントとアカウントの間で政治的妥協や合意が成し遂げられたとしても、その合意を別のアカウントが受け入れたり従う論理的必然性がどこにもありません。
せっかく議論の末、穏当な政治的妥結が見られたテーマがあったとして、それに納得できないアカウントが少しでもあれば、闘争は引き続き継続されてしまうのです。
よって私は、SNS言論空間における闘争を、「政治的妥結が極めて困難な、無限闘争の形態をとりうる」と考えています。

【結論】

以上、SNS言論空間における闘争を、クラウゼヴィッツの慧眼を引き合いに出しながら論じてまいりました。

①SNS言論空間は、哲学的には戦争の一領域である。
②SNS言論空間における闘争は、哲学的には「絶対戦争」に近い形態をとる。
③SNS言論空間は、政治的意図を持った集団がその実現のために戦う戦争とは異なり、万人がその政治的意図を達成するために万人に対して行う闘争空間であり、その闘争の政治的妥結はおよそ不可能に近い。

上記を前提とした、私自身の結論は以下の通りです。

SNS言論空間における闘争は、明確に戦争の一領域でありながら、敵の戦闘力・策源・意思を効果的にくじくことは不可能であり、また政治的妥結による和平を成し遂げることも極めて困難な形態をとる。

…なんだかひどく不穏な結論となってしまいましたが、要するに「お互いがお互いに対する憎悪を募らせながら、その意図を相手方に強制することもできず、また政治的妥結を結ぶことも極めて困難な、無間地獄のような戦闘領域である」ということになってしまいます。


何度も申し上げる通り、私はSNS言論は主に社会学の領域であると考えており、またその領域について私は全くの素人です。
そちらにはそちらの優れた論理が存在するはずですが、敢えて今回はクラウゼヴィッツの定義を純粋に援用するため、そちらには一切触れておりません。本稿が批判、議論の叩き台となれば望外の喜びです。

ゴールデンウィーク序盤にこんな不快な稿を世に出してしまうことを反省しつつ、本稿の結びとさせていただきます。

お読みいただきありがとうございました。

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