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私たちはなぜ「故郷」を愛するのか?

こんにちは。1976newroseです。


今回は【なぜ私たちは、たまたま生まれついたに過ぎない故郷をこれほど愛するのか】というテーマで綴ってみたいと思います。

私は、ある地方都市の郊外で、高校卒業まで過ごしました。三方を山に囲まれ、夜は月明かりだけが田んぼの水面に反射するような田舎町でした。
大学からは大都市圏に移り住み、社会人生活も東京をはじめとする都市圏で過ごしました。それぞれの街で、いろんな楽しい思い出を積み重ねてきたわけですが、ふとした時にまぶたの裏に浮かんでくるのは、故郷の田園風景や、そこで過ごしたたわいもない思い出ばかりなのです。

なぜ、私たちは、これほどまでに故郷を愛するのでしょうか。
それは、故郷だけが生来的に持つ「偶有性の心地よさ」に心惹かれるからではないでしょうか。
私たちは、一対の両親のもとに、自ら選んだわけでもなく、たまたま生まれ落ちた存在です。そしてほとんどの人が、中学もしくは高校を卒業するまでの多感な時期を、たまたま両親が選んだ町で過ごすわけです。
この一連の過程において、自己の決定、決断といった要素はほとんど立ち現れません。人によっては、中学や高校受験で遠方に旅立つこともあるでしょうが、少なくとも私にはそういった決断は全く不要でした。
一方、主に大学や就職の場面においては、既に自律的な判断ができる実存として、自ら将来を設計し、決断する必要があります。その設計レベルが高ければ高いほど、故郷を離れる決断をし、大都市圏へと吸い寄せられていくのが現実でしょう。入る会社によっては、居住地の決定は会社に委ねるほかない場合もあるでしょう。
更に、結婚をした場合は、居住地は自分だけで決められる問題ではなくなっていきます。

こうしてみると、自分の生活環境というのは、大人になればなるほど自己の決定、決断によって定める必要があります。
しかし故郷というのは、唯一、誰かが決めた環境を受け入れることによって成り立ちます。私たちの故郷がどんな環境になるのかは、ひとえに「偶有性」の問題なのです。
たまたま産まれついた両親と、たまたま育つことになった土地、たまたまそこで出会った人々…私たちの多くは、自己の人生設計について何らかの決断を強制され、強制され続ける運命にあります。しかし故郷だけが唯一、自己の決断を抜きにして、ありのままの偶有性によって成り立つ概念なのです。
決断には常に、期待と、恐怖と、不安が付きまといます。その割合は人によって違うでしょうが、いずれにせよ本人の精神を大きく変化させる事象であることは変わりありません。
私たちがふと故郷を思い出すとき、故郷そのものに対する郷愁とともに、「偶有性をそのまま受け入れて暮らせばよかった時代」の、あの大らかさと気楽さを同時に思い返しているのではないでしょうか。

もう一つ、こんどは故郷の中でもとりわけ、私が育ったような田舎について思いを巡らせてみたいと思います。
田舎町は、言うまでもなく、自然との共生を都市圏よりも強く感じられる環境にあります。春夏秋冬、それぞれの景色があり、匂いがあり、風があり、音があるのです。
故に田舎町では、都市圏とは明らかに時間の流れが異なります。悠久の昔から連綿と続いてきた自然の営みに抱かれ、その一部を「借りる」ようにして暮らしてきた祖先たちとの連続性を、実感することができるのです。
私の町には、年に一度のお祭りで神輿が集まってくる神社があります。私も幼いころはこの祭りが大好きで、爆竹を鳴らすために与えられる火種にいたずら心を大いに刺激されたものです。
その神社には、樹齢400年以上のご神木や、明らかに近代建築とは趣が異なる神殿があります。どんな子供でも、そこは先祖たちが受け継いできた特別な場所だということが、感覚として理解できるのです。どんな悪ガキでも、神社を傷つけたりはしませんでした。


もちろん都市圏には都市圏の魅力がありますが、こうした悠久の時間軸に抱かれるという感覚は滅多に得られないでしょう。都市圏に住む方々にとって、自然の移り変わりは、生活の一部ではなく、自ら郊外まで出向いていって「進んで体感するもの」という認識だろうと思われます。
これは優劣の問題ではなく、私は実感として、幼少期から身の回りに悠久の時間軸が存在したことをとてもうれしく思いますし、またその一部であった時代の心地よさを忘れることができないのです。

ここまで故郷について熱く語って参りましたが、もうひとつ、大事な話をする必要があるでしょう。それは「故郷」というものが、究極的には単なる「概念」であり、二度と再現されないものであるという点です。
それは二つの理由によります。一つは、いくら田舎であっても、町は少しずつ変化を遂げるという点です。帰省するたびに、柿畑や田んぼだった土地にファミリー向け住宅が立ち並んだり、おばあちゃんが営んでいた和菓子屋が跡形もなく事務所になっていたり、よく友達と通っていた店がなくなっていたり…

記憶の中の「故郷」と、現在の土地の様子は少しずつズレを生じ、「故郷」はいつでもそこにある存在から、記憶の中にしか存在しない概念へと変わっていきます。そして記憶も、月日と共にどんどんディテールが失われ、「故郷」はますます概念の中にしか存在しえない存在になるのです。
もう一つは、「故郷でたまたま出会った人々とは、二度と同じようには出会えない」ということです。私もそうだったように、多くの人々が成長と共に故郷を離れます。お年寄りはどんどんいなくなり、故郷に残った友人も仕事や家庭を持つようになります。その当時好きだった相手も、故郷を離れ、私の全く知らない方と家庭を築きます。
当然のことではありますが、もう二度と、彼らと同じように出会い、過ごすことはできないのです。彼らと過ごした故郷の思い出も、記憶・概念の中にしか存在できないのです。
私たちが故郷を思うとき、その姿は現在の故郷そのものではなく、土地に断片的に残された記憶・概念のかけらをかき集めるようにして、頭の中で再生しているにすぎません。
「同じ故郷とは二度と出会えない」、この厳粛たる事実こそが、余計に私たちの心を故郷という概念に惹きつけるのでしょう。二度と出会えない、だからこそその記憶の断片をかすかに留める故郷が、心の底から愛おしいのです。

最後に、私が常々思っていることを記して本稿の結びとしたいと思います。それは「心の中に故郷を持つものは強い」ということです。
先に述べた通り、故郷は自らの決断を必要としない、「偶有性」そのものです。また、まだ発展途上の私たちの精神を包み込み、時には匿ってくれた存在でもあります。こうしたルーツを持つ人間は、迷いと決断と闘争の連続であるこの世界にあっても、そうしたものが求められなかった時代の自分自身、本当の自己というものを思い返すことができます。
人によっては、過去の自己を常に克服することによって成長してきたという方もおられるでしょう。それはそれで結構なことです。
それでも私は、迷い、決断し、闘争に明け暮れるこの世界で、ふと立ち止まり、自分のルーツである「故郷」を思い出すことで、自分の人生の観測基準点を取り戻し続けたいのです。
そうすることでのみ、自己の実存としての連続性と、将来に向けた自己の成長というものが、一本の筋道で貫徹されるような気がするからです。

お読みいただきありがとうございました。

本稿を、決断によって新たな世界に飛び込もうとする私の幼馴染に捧げます。

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