見出し画像

「女神」について

 このエッセイは「まひる野」2019年6月号の時評に使うつもりで書きましたが、歌を引用していないこと、幸いにしてまひる野にとって(途中絡ませようと苦心の跡があるけれど)あんまり関係がない問題であることから別のテーマで書き直しました。
 文字数制限がなくなったので手をいれようかと思いましたが、ま、そこまでしなくてもいいか、と思ってこのまま公開します。

               *

 三十歳くらいのころ、講演を聞きに某県に行ったことがある。今回、特定を避ける表現をするのは、たったひとつふたつの事例でその地域や人を判断するつもりがないからなので、読みにくいかもしれないが許してほしいし、わかっても詮索しないでほしい。
 そこはゆかりもない土地で、聞きたい講演、会いたい講師だったから出かけた。もうひとり、同様に仲間内の男性歌人が聞きにきていて、二人いる心強さで講演後のレセプションまでお邪魔してきた。地域の有力者のスピーチがいくつかありつつ場も崩れた頃、講師の知人であるお二人からもなにかお話しいただけませんか、と打診があった。
 驚いた。関係者は私を一切見ず、男性歌人の方だけを向いていたのである。ふたりとも若く無名で、いや、当時彼はまだ二度目の学生だったころで私の方が多少落ち着きがあったころだ。
 それまであからさまな性差別を受けたことがなかったのは、私の幸運だったのだろう。だからこそぎょっとした。なんだろう、ここは明治時代か、未開の地か、と思った。
 一度経験すると気になりはじめる。まひる野にもある。たとえば、男性の編集委員には「先生」と呼びかける同じ会員が(無意識だと思うが)女性の編集委員のことは「さん」と呼ぶこと(ちなみに、私は男性女性関わらず「さん」と呼んでいいと思う)。歌会の場などで、会場取りなどの事務を女性がして司会を男性がするケースがなんとなく多いこと。
 それ自体はどうでもいいことである。できる人がやればいいと思う。しかし、「なんとなく」の慣例が、外から見た時にひどく醜悪に見えることを私は経験して知っている。
 このところ、そんな話をすることがたびたびあり、先の話をした。県名を言った時、ひとりが「わかる!」と言った。彼女の父は転勤族だったのだが、その某県に転入した四年生の時のことはひどく特殊なこととして忘れられないのだと言う。
 彼女は転校初日、教科書が揃っていなかったので隣の席の男の子に見せてもらおうとした。すると、まずいきなりぽかんと頭を殴られたのだという。なにか気に障ることがあったわけではなく、見せるのが嫌だったわけでもなく、意味もなく殴られた。そしてそれを、周りは笑って見過ごした。「照れてるのね」という反応だったという。
 もしかしたら、少し前までそれは「照れ」とか「男の子は幼いから」などという言葉で片付けられていたのかもしれない。しかし今、私の娘に同じことをされたら私は怒り狂って学校に押し掛ける。そうやって、女子は不条理に男子に殴られるものだ、男子は幼いのだから仕方ない、と我慢して委縮して育った子が、将来どのような男女観を持つだろうか。
 某県は、「カカア天下」で有名な県である。
私はそれは「反面」や「矛盾」ではないのだと思う。「おお、怖い怖い。女性にはかないませんなあ」という蔑みのもとで、委縮させられた女性たち。へりくだっているようで決して同じ人間として扱わない姑息な、そして根深い性差別のにじむ言葉である。
 「カカア天下」を含めてたとえば「女神」「聖女」「魔女」「怖い女」と評する言葉はそういう抑圧を含む言葉なのだ。男女関わりなく、今どきこんな言葉を使う人は、言葉に対してあまりにも鈍感だ。いやしくも歌人たるもの、言葉にはカナリアのように敏感であるべきだと思う。