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日記2020.11.11~11.13

11月11日(水)

昨夜連絡があって、近いうちに「槻の木」が20年分くらいやってくることになったので場所を作る。約80センチとのこと。横にしてみっちり積めば棚一つ分でおさまるかな・・・。近刊歌集をおいている本棚の本の上に本をぎゅうぎゅう押しこんでとりあえず場所は空いた。ほんと、本棚っていっぱいだと思ってもいくらでも入るな!

と言いつつ槻の木についてほとんど知らない。
まひる野より古くて戦前からあった空穂系結社だということ。
目白の空穂 → 章一郎邸の庭には大きな槻木があったらしいし、空穂の自選歌集にも『槻の木』という本があるから、そのあたりからついた名前だろうな、と思うこと。
名張(連れ合いの実家の近くで大叔父さんも住んでて親近感がある)出身の稲森宗太郎が所属していたこと。
2015年に閉じられて、大林明彦さんたち何人かがまひる野に移ってこられたこと。
それまで空穂会の幹事をしていただいていたこと、とかそのくらいの知識。
NDLの目録で見ると、大正15年か昭和元年の創刊のようで、なるほどかなり古い。
空穂全歌集の年譜を見ると、
大正12年の関東大震災の後混乱して
大正13年1月に「国民文学」と「地上」と「朝の光」が合同して「国歌」創刊、
大正14年6月に「国歌」終刊、「国民文学」と「白檮」に別れる
とある。一年半くらいなんだね。
翌大正15年2月(2月だから大正15年だね)、早大生を中心に「槻の木」創刊。学生中心の若い人たちの集まりということもあるし、それなりに理由があっての創刊なんだろうな、と思う。
空穂は50歳になる歳。

見つかったのは昭和16年~38年頃ということなのだけど、戦時中にどのくらい発行できていたのかわからない。たぶん、国の命令で統合とかもあったはずだし、戦後創刊の「まひる野」は土岐善麿の口利きで紙が手に入りやすい立場にあったというけれど、それなら戦時中はむしろ逆だったはずだ。昭和16年というと太平洋戦争が始まった年だし、どんな歌が詠まれていたのか、メンバーはどんな人たちか、など気になるところ。
届くのが楽しみ。

朝ごはんは玉子焼きと昨夜の肉じゃがの残り。
昼はお腹すいたけど何もしたくなくてまたスパゲティを茹でるだけ茹でてレトルトカレーをかけた。
寒い日だったので夜は鍋。白菜と葱と大根と豚バラと豆腐と小松菜。

11月12日(木)

あさ1でジャガイモと玉ねぎが届く。
10日に「9日から発送を始めています」と返信がきたけど、その返信のすぐあとで発送手続きしないと北海道からは中一日では届かないんじゃ・・・。まあ別に急いでないし、ちゃんと届いたから詮索すまい。

今日はおでんにしようと思っているけど、ジャガイモも何かしよう。ジャーマンポテトか・・・ポテトサラダもいいな。

「槻の木」が届く。
数十年前のものなのだけど、一年分ずつ縛ってあってパッと見たところ読めないところはない。とくに、昭和16年、17年、18年のものは製本されている。これ、橋本さんちにあるやつだ・・・(まひる野の場合)。21年、22年のものは印刷所の印鑑が押してある。印刷所の保管分だったのか?

19年は5冊。1月から5月号まできちんと出ていて、5月号にプリントが4枚挟まっている。
1枚はA4サイズで、空穂が会員に向けて「報告」という形で書いているもの。

「槻の木」は、現時局下の情勢より餘議なくされ、雑誌「國民文學」と統合して刊行することと相成りました。

と最初に述べられ、その後に経緯が述べられている。内容は、

日本出版会会員として出版している六十四誌のなかから十六誌だけが続刊を認められたとき、「槻の木」はその中に入り、条件としてあった他の歌誌一誌以上を統合せよという条件も満たした。しかし、その後呼び出しがあり、(なるべくという話であった)日本出版会会員の歌誌との統合をしなければ認められないという改めての要請だった。
それは、用紙の不足から起きたことであり、今年度の民間の出版用紙は昨年の五分の一弱となっているように見える。とすれば、廃刊とするか、日本出版会会員中の他の歌誌と統合して存続するかの二者択一である。
他の歌誌といえば「國民文学」をおいてほかはなく、「國民文学」は自分が創刊して今は松村英一に一切を任せてあるが縁の深い雑誌であり、もちろん「槻の木」創刊にも相応の理由があるのだけれど、過去は過去として小異を捨てて進むべきだということで「國民文学」と会議の上取り決めた。
具体的なことは今は説明できないが、紙不足という現実の上に細々と命脈をつなぐほかはなく、投稿歌数にも今以上に制限がつくなど以前とは異なることも起こるだろうが、どうかご一任いただきたい。

というような内容。日付は昭和19年5月14日。なにかと情報量が多い!
2枚目と3枚目はB5に手書きのガリ版で、だいぶかすれていて読みにくい。
「急告」とあるほうは、遅刊の説明と、「事務御報告」を先に送る旨の連絡のよう。日付は昭和19年6月18日。
もう1枚はその「事務御報告」で、

「国民文学」への去就は各位の自由だが会としては一応全員分の手続きをしたこと。
5月号分以降現在までに届いている歌稿は「国民文学」に引き継いだこと。
前納の会費は「国民文学」に引き継いだこと。
会費未納の人は手続きができないので早く払ってほしいこと。
誌友(購読会員のことかな?)の清算は追ってするが、引き続き「国民文学」を購読の方はこちらで手続きするので申し出てほしいこと。

などが書かれている。日付は昭和19年5月末日。
そして、4枚目はハガキ大の領収書。
「19年5月迄済金21円1銭国民文学へ引継」
とある。経理担当として当たり前と言えば当たり前だけど、混乱してるだろう時にしっかりしてるなあ、と思ってしまう。
領収書の宛名は「英」。英敏道という会員の名が見えるからこの人だと思う。でも、この年の出詠はないようだった。疎開とか出兵とか、なにか消息に変化があったのかもしれない。
この人の持ち物だったのか、それとも届かなかったから印刷所が保管していたものなのか。篠さんとか大下さんに聞けばなにかわかるのかな・・・。横山三樹さんがご存命ならだいぶ分かったと思うけど。

5月号はだいぶ混乱している。後ろの方で「会員諸君に告ぐ」として空穂が64誌から16誌に統合されたけど「槻の木」は残ったよ、と報告しているが、最後のページの「編輯便」には、5月号の編集の後で「国民文学」と合併することが決まった、と書かれている。これは校了後に付け足されたのかな。
〈本號より合同された「どうだん」社とも、一ヶ月にしてして別れざるを得ない成行きとなった〉とある。「どうだん」のひと、毎月送り先が変わってめまぐるしい・・・。気の毒・・・。

11月13日(金)

娘っ子が「学校行くの気が重いー」と言うので何かと思ったら、この間の学園祭代わりのイベントのときに仮装した自撮りや校内風景をインスタに上げた生徒がいたらしく注意があったのだけど、それを「チクった」生徒が特定されて、でも「自分たちがルール違反したんじゃん」と庇う子もいて、ギスギスしているようなのだった。
それは高校一年の違反を中学三年が見咎めたという形で、高校生からしてみれば「ガキが生意気」、なのだし、中学生からしてみれば「高入生より私たちのほうがこの学校のルールには詳しいんですっ」になる。
高1と中3は同じ校舎の階数違いなのだけど、中3のフロアを高校生のグループがこれ見よがしに(娘の主観)通って行ったりして、なにか因縁を探されているようで感じ悪いのだという。

私から見たら「わー! クララ白書みたい(⋈◍>◡<◍)。✧」なので、もっと聞きたくてしつこくして嫌がられる。

「槻の木」の続き。

去年亡くなられた横山三樹さんが数年前に、
「まひる野」は昭和21年春の創刊だけど、実は前年20年の12月にガリ版の同人誌が出ていて、ほぼそのメンバーが創刊した。
それは2号で、もう1号その前に出ている。自分はそれをコピーでもらって持っているが、現存するのはそれっきりかもしれない。「まひる野」創刊時の、そういうことが伝えられないまま消えていくかと思うと残念だ。
と仰っていた。
そのときそのコピーをさらにコピーしたものを見せて頂いたのだけど、誌名が「槻の木」というので、「え、このときもう「槻の木」ってありましたよね。なんで同じ名前つけちゃったんですか。紛らわしくないですか? なんで?」とお聞きしたところ、「なんでだろうねえ・・・この頃は槻の木も出てなかったからだと思うけど。」と困っていらして、一緒に「なんでだろうねえ」と首をひねったのだった。

なぜこういうことを思い出したかというと、件の「槻の木」が出て来たからです。

同人誌「槻の木」は、同人誌ではなく、主宰のいる結社だった。(数年前にコピーを見せてもらった時にもそれは見たはずだけど気づかなかった・・・。)
表紙には窪田空穂主宰、服部嘉香編集、槻の木社(住所は空穂宅)の記載があり、第一年第一號・昭和20年7月1日発行、とある。きっちり1年であらたな「槻の木」が再生した形。

巻頭は空穂の「疎開地にて」22首。次いで章一郎「工場夜業」12首。
29人の中には武川忠一の名前もある。
空穂は短文も寄せていて、それによるとこの雑誌は「槻の木」を名乗りつつ早稲田短歌会の会誌のような性格を持っていて、〈これは新に生れた「槻の木」である。〉と書かれている。文中には「槻の木」と「国民文学」の合流ということを考えると少しおかしなことも書かれているが、当時の空穂の気持ちがどうだったか、今後考えてみたいと思う。

「歌界時評」というページがあり、章一郎が書いている。3月の空襲に触れて、短歌関係の諸雑誌が「或は社が、或は印刷所が焼失し」て、総合誌の「短歌研究」も「未だに三月号を見ることができない」と言っている。四月号頃まで出たのは「国民文学」「多磨」「短歌人」などではなかろうか。とあって、当時の様子がわかって興味深い。

編集は服部嘉香、もともとの「槻の木」の会員でもあったはずだけど・・・。このあたりごにょごにょしているな。服部が病気で転地したために実際の事務作業は武川忠一と奥津春雄が担ったようで、こういう書体のような読みやすい字は二人のうちのどちらかなのだろうか。〈社名の「槻の木社」は題號に因む早稲田大学短歌会専属雑誌発行所の名としたのであって、嘗ての槻の木会とは別体のものである〉と明記している。
発行所が空穂宅かどうかというのがどうも彼らの中で大きな位置を占めているのかもしれない。
へえ、と思ったのが、この雑誌は〈学徒分散動員の影響により定時に集会することが困難となったので雑誌によって連結を全うしようとして、この「槻の木」が生れたのである〉というところ。
今、COVID-19によって結社の意義が揺れているけれど、結社誌というのはもともと集まることが出来ない状況の中で交流するための性質ももっていたのだなあ。そう言われるとそうだよね、と思うけど、ちょっとハッとしたのだった。

二号は終戦後。12月1日発行。岩田正が新たに参加している。
服部嘉香の「編輯便」のなかに〈機運の波は、もとの槻の木会の槻の木の復刊を促すかも知れない。望ましいことである。もしこうなれば、本誌は名を改めて再出発し、「槻の木」の名を返したいと思ふ〉とある。
「槻の木」の復刊は21年3月号、1月には原稿を集めて2月に編集しているはずだから、もう復刊の連絡は来ていたはずだし、4月号創刊の「まひる野」の準備も視野に入っていたのではないだろうか。
この号は実質「まひる野」0号と言っていいのだろう。

この2冊を見ると、後記(編集便)の前に章一郎が「歌界時評」という1ページ内外のページを持っていることに気づく。いまのまひる野の「時評」と同じ位置だし、分量だ。
今、私も担当者のひとりとなっているけれど、これがまひる野らしさのひとつかもしれないと思うとなんかすみません、という気持ちになる・・・。次からもっと背筋を正します・・・。(けど、章一郎さんのもだいぶふんわり時評。)

復刊第一号の「槻の木」には表紙に空穂の巻頭言が載っている。「作歌態度について」というタイトルで、いかにも空穂らしい。
「歌は人間より大きいものだらうか。又は人間と対等のものだらうか。或は又、人間より小さいものだらうか君は何う思はれる。」という問いが示され、「私は歌は人間と対等なものだと思つてゐる。」と答えている。「その表現の歌にわれ以上のものを求めるのは、奇跡を求めると同じだと思ふ。」これは、ダメはダメのままでいいというのではなく、生き方自体を問う姿勢なのだろう。中身が伴っていないのにカッコつけても仕方ないよ、という感じだろうか。
重い。
中年になってくると、こういうのずっしりくるよね・・・。

もうひとつこの号でなるほどと思ったのが、「槻の木」は会員の佐伯仁三郎が興した出版社? によって発行されているけれど、それが22年分23年分に押してあるスタンプと一致するので、この「槻の木」の山の少なくともいくらかはここから出たものだろうこと。書き込みとかなくてきれいなので、ほぼそうなのではないかと思う。

ずっと知りたかったまひる野の生まれるあたりの事情がよく分かって、すごくいい買い物だった。書かれている内容も興味深いし、作品も読んでいくと面白いだろう。
これ、私が持ってていいのかな・・・。空穂記念館とかには蔵書されているかしら。問い合わせてみなければ。
でも、松本遠いしなあ。もし今後私自身が見たいと思うことがあるなら、私が死んだ後の寄贈でもいいからなあ。複製作ってくれるなら寄付するけど・・・。

だーっと興奮のままに書いてしまったけれど、日記だからいいや。
今日は陽ざしがあって暖かい。
今注文中の商品はないはずなのにヤマトから配達の連絡がきているから、連れ合いの椅子なんじゃない?(リクライニングできる椅子を業者経由でお値打ちに買ってもらったらめちゃくちゃ時間がかかっていて、それが届いたら今使っている椅子をくれるというから待っている私は日々腰痛と戦っている)とワクワクして待ち構えていたら、こちらもひと月以上前に注文してあったベビメタちゃんのグッズのカフェエプロンだったのでガク―となる。いや、エプロンはエプロンで嬉しいですけどね。

気づいたら5000文字を超えている。今週は2回に分ける・・・。