女人短歌の創刊号巻頭に森岡貞香がいたのが気になる(日記より)

12月23日(水)

NDLが当選しているので行ってくる。
今日は真鍋美恵子について調べてくる予定だったのだけど、微妙に昔の人なので第一歌集の跋文にここまでいる? というくらい仔細に本人の情報が書かれていて、ほぼそれで用が済んでしまった。
岐阜出身ということで、半ば地元の歌人という気持ちでいたけれど、岐阜は生まれただけで、少女期は群馬の安中、その後は東京で育ったようだった。群馬か・・・。わりと、封建的なとこだよね・・・急速に熱が冷めてゆく・・・。だってわたし、短歌より歌人が好きなんだもの・・・。

心の花でももちろん活躍したのだけど、その中の煌びやかな歌人たちの中にあってはやはり「女人短歌」での活動が目立つようで、「女人短歌」を見てみる。
3年位前に見た時より面白くて、「だんだん分かるようになってる…!」と思った。

以前見た時には、超結社とはいえリーダー的な人のいる半結社的なイメージが強かったけど、今回はほんとうに超結社を目指していたんだな、とわかった。
たとえば、創刊号巻頭は一段組見開き5人。一番目立つこの場所に配置されているのは、若山喜志子、齋藤史、四賀光子と鈴鹿俊子と森岡貞香。
鈴鹿俊子は「帚木」の人だけど川田順の妻だから竹柏会ともかかわりがあるのかもしれない。明治42年生まれ(女人短歌創刊当時41歳)。長澤美津が明治38年、真鍋が39年、葛原が明治40年、そして齋藤史が42年だからこのへん同世代。
四賀光子が明治18年、若山喜志子が明治21年だから、ひと世代違って、
そして、森岡貞香が大正5年うまれだから、創刊当時33歳でめちゃくちゃ若い。ベテラン・中堅・新人のバランスがいいな、と思った。

実際に創刊に向けて準備をしたり編集をしたりしていた北見志保子や川上小夜子、五島美代子、長澤美津、水町京子、阿部静枝、山田あきたちはというと、それぞれ別の作品欄に分かれて入っている。

作品欄はだいぶ個性的だ。
創刊号には作品1から作品8まであって、作品4と6が三段組で少し扱いが小さいけれど、ほかの欄は二段組でも掲載歌数が多かったり、囲みだったりとそれぞれ趣向が凝らしてある。たとえば、作品1は一段組だけど見開きに5人でページがまたがっていて掲載は6首。作品2は二段組だけどきっちりひとり半ページ割り当てられて8首というぐあい。
順列を極力つけないようにかなり工夫してあるのだと思う。
さらに、これは相当変だと思うのだけど、第二号の作品欄は作品9から始まっているのだ。だから、号数が進むにつれて作品34とか作品78とかどんどん増えてくる。
これも作品1をいわゆる同人欄というふうに固定しないための工夫なのだろうな。

そうなってくると、作品いくつまで数字が大きくなるのか知りたくて探ってみた。結論としては作品100までいって次は作品1に戻るのだけど、これもうまく調整してそうしたのだろうけど16号の巻頭が作品1に戻るのだ。

目次でそれを確認して、一応中身を確認してみたら、なんか変だ。
落丁?
と最初思った。
作者名がなくて、数字が書いてあるのだった。ぜんぶ。

混乱しながら後記をみると、作者と作品を切り離して読もうとする実験だったらしくて、なんとも・・・現代的な問題意識というべきか、逆に歌壇はいつまでも同じ問題を抱えていると思うべきなのか。

作者名は次号の17号で明かされていて、17号はもちろん記名式。一号限りだったかは全号確認していないから分からないけど、たぶんそうなのだと思う。
今まで私はこういう取り組みがあったことを知らなかったから、これにどんな反応があったかも知らないのだけど、17号にはこの企画について葛原妙子が書いた文章があって、それがとても面白かった。
16号の作品の中に、混血の子どもを抱えて苦労する母親の歌があって、それは衝撃的だったけれどよくよく読むと大変うまいのでおそらく誰か別人(つまり、指導者的な実力のある誰か)が詠んだものだろう。そう思うととても残念で白けてしまって、この歌はこのまま「詠み人知らず」としておいたほうが作品として生きるのではないか。というような内容で、その後自分の思う「虚構」について書かれている。

作者とか虚構については私自身は大西民子の「飛んでいる蝶が実際には白だろうが黄色だろうがあるいはいなくたって構わないけど、〈アカハタを売るわれ〉は嘘であってはいけない」を採用しているのだけど、それに近い(というか、こっちの方が早いのかな?)(調べればわかるけどまあいいや)ことが書いてあった。
この葛原の文章を読みながらあらためて、私は野菜や果物のパッケージについている「私が作りました」シールを思い出していた。
あそこに顔写真を載せているのが誰だろうが別に味や安全性に関わりはないし、誰だってかまわない。だけど、もし、「あそこに写っているのはモデル事務所の人で実際の生産者ではなく、あれはラベルのデザインですよ」と言われたらやはり騙されたと思う。たとえば、隅の方にでも「イメージ」と書いてあったり、キャラクターとしてデフォルメされていたらまあ問題にしないだろうけど、それならそれで最初に受け取る気持ちの方が変わるだろう。
なんか、そんなことを思ったよ。

ちなみに、件の歌の作者は阿部静枝で、彼女の夫は代議士で彼女自身も区議として社会問題や女性問題に取り組んだ人。なので、阿部静枝は阿部静枝で考えて、自分の立場から取材して詠むよりも当事者として詠むほうが強く訴えかけることのできることを分かったうえで、面白半分ではなく、また目立とうと思ったわけでもなく「必然性があって」やったことだろうと思う。
短歌にはいろんな側面があって、芸術性を求められることもあればジャーナリズムに寄ることもあるし、ライフログという面もある。濃淡はあれど一人の歌人の中にもそれは混在している。
その全てを超越した作品もあるだろうけど、まあそう滅多にはない。ではどう捉えるか、こういうことは結論が出ないことだろうなあ。

12月26日(土)

「女人短歌」創刊号の巻頭5人になぜ森岡貞香がいたのか問題で、なんとなく「ポトナム」からのつながりで阿部静枝の推薦なのかな、と思っていたけれど、取ってきたコピーの中にそれらしき記述があったのでメモを取る。

戦時中逗子に仮住まいしていた森岡貞香は、戦後も2、3年いろいろあって逗子に留まっていた。
そのころ、尾崎孝子も逗子にいて、戦後逗子で歌会が開かれた。
歌会の参加者は近藤芳美や加藤克巳、中野菊夫たちで、新歌人集団の人たちだったが、それは「歌壇新報」を出していた尾崎孝子が「新日光」という新しい雑誌を出そうと目論んでいて、新歌人集団に編集を委せようと思っていたからだった。
歌会に人を集めたい、ということでポトナムに所属していた森岡のもとに尾崎が訪ねてきて勧誘、勢う彼らの批評にたじろぎながらも参加していたところ、「新日光」の2号に作品依頼がきて10首発表する機会を得た。
蛾を詠んだ(!)その10首は一部で評価され、女人短歌創刊の時に「ポトナム」から阿部静枝、君島夜詩と3人参加することになった。

という経緯だったみたい。なーるほどねえ。「灰皿」の企画に森岡貞香が加わっていた理由もこれでよく分かった。偶然って結局偶然ではなくて必然なんだなあ。

尾崎孝子は「女人短歌」の発起人に名前がある。「ポトナム」にいたこともあったみたいで、そこで森岡を知ったのだろう。『女歌人小論』の長沢美津の文章中には名前が出てこない(すくなくとも目立つところには)のに発起人に名前のある人は何人かいて、栗原潔子や清水千代、初井しづ枝や杉田鶴子なんかがそうなんだけど、尾崎孝子もそう。
清水千代や初井しづ枝は関西の実力者だったんだろうし、杉田鶴子は「朝の光」→「勁草」と空穂系の人なんだけど、杉田玄白の後継者とかいうお医者さんで、まあ、おそらく当時はかなり著名な方。なるべく広い組織にしたいという色気があって声をかけたのかな、という気がする。
尾崎孝子は短歌ジャーナリズムの人で、言ってみれば奥様方の集まりのなかでちょっと異質な感じ。
しかし、どこかで見た名前だぞ。。。

と思って、ふっと気づいた。
『新歌人集団』の中で加藤克巳が書いていたのだった。
なぜ記憶に残っていたのかというと、山本友一が「新日光」への参加を断ってきたくだりで「歌壇新報のあの低級な編集ぶりには前からいやな思ひをしてゐまして、尾崎孝子さんその人に対しても私は同ずる気持になれないのです。」と書いてきたとあって、加藤克巳はそういうとこ結構隠さない人だけど、それにしてもあけすけだなあと思ったからだった。
「歌壇新報」はプランゲにデータがあるというので、またNDLの予約を試みなければ。

1月15日(金)

緊急事態宣言下ではあるけれど、ひとつだけコピーしてきたい資料があったのでNDLへ行ってくる。実は明日も当たっているのだけど今日だけにするつもり。
お昼ごろ家を出て13時ごろ到着するように行った。2時間くらいで帰ってこれば行きも帰りも電車は混まない。

びっくりしたのは、新館の2階の検索スペースがなくなってがらんどうになっていたこと。え、いつから?? 感染対策の何かかと思ったけれど、後で聞いたら改装のためらしい。どんな風になるのかな。
首尾よく複写申請を終えて、坐っていた時間は5分くらい。乗り入れで一本とはいえ45分かけてやってきてこれではあまりにもだなあと思ってついでに尾崎孝子(こうこ)の歌壇新報について調べてみる。
プランゲに「歌壇新報」も「新日光」もあるというので出してもらうが、マイクロフィルムを借りるのは2度目で、もう4年も前のこと。すっかり忘れていて操作も手間取るし、うまく表示できない。全然見えない。なんじゃこりゃ。
人が少ないシンとした中でフィルムを拡大するガ―ガ―いう音が響く・・・。

いたたまれなくなって帰宅。
帰宅途中で検索したら、神奈川県立図書館に尾崎文庫というのがあって尾崎孝子の寄贈の資料が残っているらしい。尾崎孝子について調べるならそこに行く方がよさそうだ。
だけど、この状況だから県外者は遠慮して、ちょっとは収まった後の方がいいのだろうなあ。