超ざっくりとミャンマーのこと書いてみました
こんにちは。アセアン進出支援協会の阿部です。
アセアンの国々紹介、超ざっくりシリーズの第3回は「ミャンマー」のことを書いてみたいと思います。
ミャンマーってどんな国?
ミャンマーは1988年(昭和63年)までは、「ビルマ」と呼ばれていました。「ビルマの竪琴」という小説が映画化され、過去に何度かリメイクされているので名前を聞いたことがある人もいることと思います。
もともと、ミャンマーという呼称は現地では使われていたようですが、1989年(平成元年)にビルマからミャンマーへと正式に呼称を変更しました。この変更の背景には、宗主国のイギリスからの自立意識が働いたこともあると言われていますが、そんなミャンマーに2015年、訪れる機会をもらいました。
↑ 到着したのは夜でしたが、空港からヤンゴンへの道はご覧の渋滞...
↑ ヤンゴンの中心部近く。このあたりには高級なホテルも建ち並んでいるエリアです。
ミャンマーの街並み
私たちが訪れたのは2015年9月。このとき、ミャンマーの時の政権はまだ今のアウンサンスーチー氏が率いるNLD(国民統一党)が選挙で勝利する2カ月前のことでした。
ミャンマーは今でもビザを取得する必要がありますが、当時まだ私はビザというものをとったことがなかったので、品川にあるミャンマー大使館でドキドキしながらビザを取った記憶があります(笑)
今は法律が変わってしまい右ハンドルの車を輸入することが法律で禁止されてしまいましたが、当時は日本車の人気は高く、日本から輸入された中古車がそのままの形で街中を走っていた光景はとても印象的でした。
↑ 塗装もそのままになっているところが、どこか微笑ましいですネ
私たちが訪れたのはミャンマー最大の商業都市ヤンゴンなのですが、街の中心部にはパゴダと呼ばれる仏塔が建っており、夜になってもその姿は煌びやかにライトアップされていました。ちなみにこうしたパゴダやミャンマーのあちこちに建てられていて、誰でも立ち寄ってお祈りを捧げることができるようになっています。
↑ 人口約5千万人に対し、ヤンゴンの人口は700万人と過密な状態…
宗主国の痕跡
19世紀、東南アジアの多くの国がヨーロッパを中心とた国の植民地下に置かれていましたが、ミャンマーも例外ではありません。1886年、ミャンマーは当時インドを植民地にしていたイギリスの植民地下におかれました。
以前記事に書いたフィリピンもそうですが、こうした影響からか、建物や食べ物には、どこかヨーロッパ風なものを感じることができるのもアセアンの特徴かもしれません。私はイギリスには行ったことがありませんが、ヤンゴンの中心部も、どこかそんなイギリス風な建物が建っていました。
経済は、政治はどうなる?
私たちが訪れた2015年は、ヤンゴンにKFC(ケンタッキー・フライド・チキン)がまだできたばかりのとき。経済は上向いてきているとは言われていたものの、ミャンマーの1人当たりGDPは1,408米ドル(2019年時点)と、アセアンのなかではまだ最下位に甘んじています。
それでも、新しい空港を建設中だったりと、とても活気がある姿が印象的でした。
昨年行われた総選挙では、アウンサンスーチー氏が率いる国民統一党(NLD)が、再び勝利しました。しかし、長く続いた軍事政権の流れは今も残っていると言われています。憲法で定められた軍人枠の存在などがそのことを表していると言えるでしょう。
ロヒンギャ族の問題は、スーチー政権に対して特にヨーロッパ諸国からの失望を招き、今も解決の糸口が見えない状況が続いています。
ミャンマーのラカイン州にある港湾建設では中国との契約が成立し、またコロナワクチンでも中国が一部を無償で提供するなど、西欧とできた距離の隙間を中国が埋める動きが出始めています。
2021年1月に誕生するアメリカのバイデン政権が、トランプ政権でできたアセアンとの距離をどう縮めてくるのかにも注目が集まります。
18世紀、ミャンマーはインドシナ半島で強い勢力をもっていました。今の国土の広さがそのことを証明しています。ビルマ族が誇り高いと言われている一方で、民族間の人権問題といったことも、国内では燻るミャンマー。
スーチー政権の舵取りが、今後国をどう道にいていくのか。アジアのなかでも注目したい国の一つです。