『面倒くさい』を分解する
人生ある程度、衣食住の安定を手に入れたら、もうそれ以上はいいかなと思う人が意外と多いのだと思う。
私は、生活の中でちょっとだけ良くなることは、マメに更新してきたが、何かすることで少しでもマイナスの何かが想像されるなら、
それは手をつけない、足を踏み入れない、
そうやって生きることがむしろ賢明だと思っていた。
その心の裏側には、常に
「なんか怖いし、色々面倒だし、、、」
「私は馬鹿だから、動いてもろくなことはない」
こういう思考があったことも否定は出来ない。
やることなすこと、『あなたがそんなんで出来るわけないじゃない?』と言われて育ったから、だなんて、、、
母が亡くなって8年も経ってとっくに中年の曲がり角を過ぎた私が言うのは、悲しくもあり、もはや気持ちも悪い。
動かないのは、自分の決定でしかない。
何かする時には必ず勉強もいるし、調べ物もあるし、ギアを入れるという感覚を持たなくてはいけない。
ギアを入れる癖がついてないと、ギアは錆びついてくるし、入るかどうか分からない自分のギアへの信頼度も落ちてくる。
この負のスパイラルは気がつくとどんどん
「あぁ、めんどくさい、別にやらなくても死なないし」
という謎の不確かな自信へと変わっていく。
五十歳を過ぎて思うことがある。
頻繁にギアを入れながら、変化を楽しんでいる人達と、変わらない生き方を選んだ人達。
ほんの少し前までは、どちらも美しく、それぞれの良さとして、しっかりした輪郭が映ってみえた。
でも、今ここにきて、変わらなかった人達の苦悩を見ることが多い。
なぜならそれは、人生が長すぎるから、なんだと思う。
五、六十年だった平均寿命が、ホントなのかは定かではないが数十年後には倍になってしまうらしい。
ギアを錆び付かせたこの先の自分の未来が、本気で怖くなった。
「あぁ、めんどくさい、別にやらなくても死なないし」
いったんこの言葉を使わないことにしようと思う。
代わりに、
「やってみて無理だったら、その時はすぐに手放そう」
せめてこれにしてみる。
100%マイナスのない選択など無いのだから、せめてギアは小さく入れ続けよう。
そして母親業の大半を手放した私が、今、思うこと。
子供のやる気スイッチは、もしかしたら母の私の中にあったのかもしれない、ということ。
出産後、私が社会へ出たのは、次男が就園前の冬だった。
長男は小1、その頃彼は転校したばかりだった。
長男が言った。
私と次男は、ずっと家の中にいることが出来て、生活を変えてなくてよくてズルい😞 と。
新しい学校に馴染むことに、必死だったのだろうな、と思う。
「小さくでもいいから、仕事に出て、新しいことにチャレンジする母の姿を見せよう」
そう思った。
成人した子供達の近頃の知識量は、私など到底及ばない域に達している。
教えてもらうことばかりだ。
もし私が今後彼らに、何か伝えられることがあるとするなら、それは幾つになっても小さくギアを入れる生き方、母のやる気スイッチを見てもらうことなのかな、と思う。
「面倒じゃない?」と聞く私に、
「いや、そんなたいしたことじゃないで」 と、父はいつも言う。
この記事を書いていて思い出した。
私のやる気スイッチを、八十四歳の父の中に見つけた。