あの朝ドラの料理はなぜ美味しそうに見えないのか
今期朝ドラの料理はなぜあんなに「美味しそうに見えない」のか。
その謎を解明すべくチムドンの奥地へ…とは旅立たないけど、料理が話題になった回の前後をとにかくオンデマンドで見てみた。
わたしは飲食業界に関わるメディアで仕事をしていて、シェフやフードスタイリスト、レシピ開発の知人もいる。
彼らから、苦情にも似た声が来る。
わたしは4月末ですでに離脱済みなのに。
結論としては、すべての料理が
〈けがれなき無垢な主人公〉
という設定のための“小道具”にすぎないから、ということだ。
◆◇◆
たしかに、ひと目で疑問符しか浮かばない料理、扱われ方が雑すぎて痛々しい料理、味と衛生面に不安と心配がよぎる料理…の数々が目立つ。
料理監修云々より、そもそも制作陣に食への敬意とこだわりがない。
たとえば、漁港の食堂でイカ刺しを食べるシーン。
主人公の食べ方も相当おかしいけど、最も象徴的なのは、食べる途中にツマの大根がびろっと落ちてお味噌汁の椀から箸袋に垂れ下がってるところ。
あれは飲食扱うメディアなら絶対に撮り直すか、カットする。最低限の美意識だと思う。
最近の回でいえば、お弁当の白米にエビチリ(?)のタレがぺチョッとついてるのにまったく気にせず「よし、できた!」
ここまで盛りつけと見た目に神経質じゃないシェフなんて、今まで一人たりとも会ったことがない。
そしてわたしが知る撮影現場ならあれはNGです。ついでに言えばわたしが息子氏にもたせるお弁当でもNGです。
(そもそも、わたしならあの見渡すかぎりの一面の白米にはせめて黒ごま振る)
「ざっくり」と「がさつ」とはまったく違う。
「天真爛漫」と「傍若無人」が違うように。
ケータリング業をやってる友人が一番呆れていたのが、ラフテー弁当だった。
「ラフテーは照りがなさすぎる」「なぜ何でもかんでもごはんの上に」「天ぷら?と昆布巻き、丸い断面を大量に並べる盛りつけとは」「ラフテーと天ぷらと昆布巻きという組み合わせはないな…せめて昆布巻き半量にして食感のちがう箸休めや口直し絶対入れる」
およそプロのつくる弁当には見えない、と。
◆◇◆
料理監修に問題があるかといえば、なかなか微妙だと思う。
彼らにどういう権限があってどこまで現場にタッチできるのか、わからない。
あくまでバックヤードでの仕込みだけで、実際の撮影時やカメラチェックには立ち合えていないのかもしれない。
そうとしか思えない、そうであってくれ。
というくらい料理の見え方が残念すぎる。
総じてしずる感がなく、乾いてパサパサか、どろどろぐずぐずか。
そして何もかもが冷めてる。
炒め物だろうが揚げ物だろうが、作りおき感、サンプル感がすごい。
そこで思い浮かぶのが、映画『食堂かたつむり』だ。
どんな作品かは検索してください。
この映画の料理監修を彼らが担当している。
〈心に傷を負い失声症になった主人公が、田舎で一日一組限定の小さな食堂を開く。彼女のオリジナル料理は「食べると願いがかなう」と評判を呼びーーー〉
っていうんだが、出てくる料理出てくる料理、かなり生理的拒否感がすごい。
これ以上は書けない。
(とにかく検索してみてほしい。ちなみに偏見やうっすらとした差別意識、下品な性的描写があるのでご注意を)
そういえば、あの映画も、主人公が意志疎通できる唯一の存在だった飼い豚を締めてみんなで食べてた。
名前はアババではなくエルメス。
エルメス自身が食べられることを喜んでいる、という体(てい)で。
色とりどりの花を飾っておめかしさせて。
完全に『ミッドサマー』である。
このストーリー自体は原作作家のものなので、料理監修のお二人はあくまで料理監修でしかないんだが、そもそも“作家のイメージする主人公のつくる料理が、彼らの料理だった”と。
このイメージの引き寄せには何かある…と思う。
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かの福田里香氏の〈フード理論〉によれば、食べ物が出てくるシーン=フード描写は、物語の演出上、キャラクターの特性を表す効果的なアイコンとなり得る。
(詳しくは検索を。本が出てます)
『食堂かたつむり』も、今期朝ドラも、主人公の女性は「天性の愛され料理人」だ。
どんなときもナチュラルな自分らしさを失わない彼女らが“ひらめき”でつくる料理は、つねに人々に称賛される。
ひと口食べれば、とにかくすべての問題が無条件で解決するのだ。
病が治り、恋人は愛しあい、仕事ははかどり、結婚は許され、ピュアなハートが夜空に弾け飛びそうに輝き、みんな笑顔、世界は平和、すべて世はこともなし。
教養も知識も下積み経験も調理師免許もない。めんどくさい過程を見せる必要はない。
だって主人公は「無垢」「無謬」。
イノセントな彼女らは、生まれついての料理の申し子なんだから。
ほとんど聖母マリアの〈無原罪の御宿り〉状態である。
そのキャラクター設定を強化するために、料理に大いなる力と役割を負わせて、つぎつぎと〈奇跡〉を見せていく。
朝ドラでは、イカスミパスタも生魚カルパッチョもボロネーゼ・ビアンコもやんばるナポリタンも、歴史なんか無視してぜんぶぜんぶ主人公の発明品として描かれた。
でもいいんだ、〈奇跡〉なんだから。
オーパーツみたいなもんだから。月刊『ムー』にたくさん載ってるやつです。
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たぶん、制作陣は「食いしん坊の少女がやがて一人前の料理人になるまでの成長譚」を紡ぎたいわけではなく、
「ヒロインをヒロインとして成立させるための証明」
をひたすら積み重ねてるんじゃないだろうか。
で、料理はその証拠品。“ブツ”です。
証拠として提示できさえすれば十分なので、ていねいな“ブツ読み”は必要なし。
料理名だけで、材料や作り方や背景のくわしい説明がないままなのは、
単なる“記号”だからだ、と思う。
いかにもイタリアっぽい、沖縄っぽい、“それっぽい料理名”があればいいわけです。
披露宴で出された「ミヌダル」が味も素材もわからないただの真っ黒くろすけでも、いつかの「ビステッカ・アッラ・フィオレンティーナ」が骨付きのTボーンじゃなくただの薄切りステーキでも、かまわないわけです。
必要なのは名前で、中身はしょせん消え物だから。
映画でも、主人公の食堂では決まったメニューはなく価格設定も不明、ただただ主人公の思いつきで料理を作ってた。
客の好みとか懐事情はまったく無視され、ひたすら主人公の内なる世界の「表現物」が作られる。
材料も作り方も見た目も、主人公が「おいしいもの」をつくったのだから絶対にこれが「正義」、ということです。
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わたしは料理監修のお二人が営む“器と料理の店”に行ったこともあるし、書籍も見ている。とても真摯な食のプレゼンテーションをする人たちだし、朝ドラの公式レシピブックはさすがのビジュアルだった。
彼らの料理は、“一枚絵”のものなんですね。
器と、食材と、そのまわりの余白を含めたアートディレクション。
しずかな古民家カフェがよく似合う。
盆栽のような、茶懐石のような、よけいなものを削ぎ落とした引き算の美をめざしていることが伝わってくる。
それと、(志は真逆だが)映画やドラマの制作陣が料理に求める〈記号感〉が、不幸にもばっちり合致してしまった。
監修のお二人が本来大切にしているはずの、それぞれの料理の背後にある暮らしの知恵や土地の歴史や、作り食べ継がれた記憶は、本編ストーリーには無関係な“ノイズ”として切り離されてしまった。
映像向きとはいえない料理監修と、料理をブツとしか見られない映像制作が、タッグを組んだ。
本当に不幸だと思う。
結局、料理監修のふたりがインタビューで
「映像の仕事って、基本『無茶振り』なんです」
と語っていたことがすべてかと。
その料理を作り、食べることに物語上の“必然”があれば、「無茶振り」にはならないはずだ。
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最近の回では戦後食糧難期の代用食が出てきた。
闇市マーケットがあたかもイオンのフードコートみたいな扱いで、
「おいしくなかった料理も、ふりかえれば家族にとって一番キラキラした幸せな思い出」
みたいなセリフを主人公の親世代の人物に言わせていた。
広島と長崎を想い、終戦記念日を控えた8月のあのタイミングにこの回が放送される意味、主人公が沖縄人であるこのドラマの意味を、スタッフ演者全員、いったいどこまで感じているのだろう。
先の大戦で約230万人にものぼる日本軍の戦没者、その6割以上は「餓死」でした。
「おいしくない料理で昔の記憶を呼び覚まそう」といって主人公がこしらえた「進駐軍スープ」には立派なエビの頭が浮かんでいた。
あれはきっと〈『SDGs』の先駆け〉なのでしょう。
さすが朝ドラだと思います。