─ 境 界 線 ─ 映画『はい、泳げません』レビュー
「ヨーグレットグミ」って食べたことありますか。
うちの息子氏は、昭和生まれ母の影響か、ヨーグレットが大好きです。
あのカリポリしたハードラムネ的噛みごたえ、さわやかな酸味。
そしてもちろんグミも大好きなわけです。子どもは誰もがパワードバイ果汁グミ。
で、ある日スーパーで「ヨーグレットグミ」なる夢商品を発見した。
買ってみて、食べてみた瞬間、
こりゃダメだ、と。
ヨーグレットなのにグミ。味はヨーグレットなのに、食感がふにゃグミ。完全に脳がバグる。手が止まる。
ラムネとグミの境界線って超えるのはなかなかハードル高いねぇ、
という話をこの映画を観ながら思い出しました。
手をのばす、ということ
この映画を象徴するのが、小鳥遊と静香コーチの電話のシーン、というのはまちがいない。
水族館にいる小鳥遊と、スイミングスクールの受付カウンターにいる静香コーチ、画面は二分割されている。
ところが、スプリットスクリーンで分断されているはずの〈境界線〉を超えて静香コーチの手がにゅっとのび、小鳥遊の腕をガシッとつかむ。
意表をついた映像の遊びが目に焼きつく。
誰かが誰かに向かって手をのばす。
水族館とプール、あちらとこちら、生徒とコーチ、あなたとわたし、
泳げない男と、泳ぐことしかできない女。
助けたかった父親と、助からなかった子ども。
過去と現在、心と身体、本音と建て前、自分と他人、現実と妄想、光と闇、
生と死。
その境界をつなぐ存在が〈水〉である。
陸の上からでは見えない、わからない、水の中の世界。
光がキラキラ乱反射する水面。
境界を乗り越えるただひとつの鍵は、手をのばし、身をゆだねる、ということ。
その境界を超えてゆけ。
泳ぎながら、超えてゆけ。
中島みゆきなら小鳥遊をこう励ますはずだ。
冷たい水の中を ふるえながらのぼってゆけ
ファイト!
中島みゆきではなく綾瀬はるかだった。
綾瀬はるかともあろう女優をあくまでも第三者の水泳コーチとして配置したのは、大正解だと思う。
主役でもなく、ロマンスの相手役でもない。
夜のプールでふたりきり抱き合って水にもぐって号泣したって、そう簡単にデキたりしない。
彼女の不思議な存在感とあいまって、おとぎ話で主人公を導く精霊のような、ルーク・スカイウォーカーにとってのヨーダのような、
絶妙な距離感からの〈愛ある無責任な他人〉っぷりがすごくよかった。
わたしはこの作品で綾瀬はるかにはじめて畏敬の念を抱いた。いや天才だわマジで。
以上。
で終わりたくなるくらい、正直ほかに感想がない。
綾瀬はるかの無駄遣い。
からの、長谷川博己の垂れ流し。(むしろ眼福でもあるが)
これほどに映画的なモティーフに満ちながら、いまひとつ消化不良に終わってしまったのはなぜだろう。
寄せては返す 波のように
まず、見せ場がどうにもぶつ切りで、凝った演出の突拍子のなさが気になった。
妄想?幻影?がシームレスに現実として映像化される場面が各所にあり、そこに監督のこだわりが詰まっているであろうことはよくわかる。
(電話のシーンなんかまさにそれ)
一番ひっかかったのはやはり冒頭で、ハセヒロと麻生久美子がカフェで会話していると、突然モブキャラが駆け寄ってきて麻生久美子を羽交い締めにし、口めがけて納豆をドロドロ注ぎ込む、という演出。
あれ、あそこでもう終了しちゃう観客もいるんじゃないですかね…
笑えるほどはおもしろくなく、フックというには機能してない。
わたし個人的にはあそこで逆に期待が超ふくらんだんです、なんたってキモい幻想映画好きなので。
この手の「妄想と現実世界の境界があいまいでやたら行って来いするキ●ガイすれすれ作品」、大好物なんです。
それこそ渡辺監督が師事していた鈴木清順とか。ハセヒロがパンフ中で挙げてたフェリーニとか。ピーター・グリーナウェイとかルイス・ブニュエルとか。
が。
どうやらそうじゃない。
あれ一回きりで謎のモブキャラは退場しちゃいました。
主人公の脳内の妄執がビジュアル化された…にしてはその後に効果的な連打がないし、ただただ単発のギャグ扱い。
この納豆テロに象徴されるように、監督のアイデアがどうも浮いてた。
前半コメディー、からのしのびよる後半シリアス、というギアチェンジの狙いはわかるんだけど、
後半になって突然画質を落とした効果もまったく意味不明。
(主人公の記憶のもやもやを画質で表現したとか?)
そもそも、前半コメディーがぜんぜんコメディーじゃないのが痛かった。
麻生久美子の関西弁がむしろネック。あんな強烈な関西弁キャラなのにまったくおもしろくない。
おばちゃんギャグがいちいち古い。
トラシカ…もといトラウマのくだりは今キーボード打ってても萎える。
ひとつひとつのセリフや演出法には一瞬心さわぐものもあるんだけど、それが本当にその一瞬だけで、物語につながって腑に落ちてこない。
喜劇とシリアスが撹拌されないなー、というもどかしさだけが残りました。
いまこう打ってて、やっぱり麻生久美子演じる妻がかなり喉に刺さった小骨状態なのがわかってきた。
子どもを亡くした夫婦。
記憶が鮮明な妻と記憶を失った夫、そのすれちがいを描きたいんだろうけど、妻、「いっしょに泣いてくれない」ことをはげしく・念入りに・くりかえし罵倒するわりには本人早々に再婚。
すれちがいというより、なんだかちぐはぐ。
この夫婦がたしかに紡いでいた家族の日々が、透けて見えてこない。
家族3人がワンショットで映る場面もほぼないし。
喪失の哀しみなんて人それぞれ、千人いれば千通りあるはずなのに、「いっしょに声を上げて泣く」以外の表現を許容しない妻。
まぁ現実にはそういう人もいるでしょうけど、この妻がその手の狭量な人間である、あるいは夫を服従させるような人間に見せるエピソードもない。
だけど、最後に(また突拍子もなく)死んだはずの息子が走ってきてふたりで抱きとめて、泣く。
ホントにこれで彼女の魂は浄化されるんか?
そんな、簡単に?
川で死ぬといえば(ってなかなかすごい書き出しだが)ちょうど最近、大河『鎌倉殿の13人』で、八重さんが流されて死んだばかりだ。
とっくの昔に死んだはずの子の名前を叫びながら濁流に入っていった八重さんのある種の憑かれた執念、恍惚とした表情、
あれ見ちゃったあとだと、小鳥遊夫妻の泣く泣かないの痴話喧嘩がどうにも陳腐に思えてしまう。
記憶がよみがえって自分の気持ちの落としどころを見つけたら、それでリスタート? ホントに?
後半、プールに入るたびにフラッシュバックして、死んだ息子が目の前で沈んでたりするのもさすがに困ってしまった。
死んだ息子出さないでいかに描くか、それが作り手としての勝負どころでしょう。
八重さんは、千鶴丸の最期がどんな風だったかも知らない。八重さんの最期の瞬間も、描かれなかった。
だけどわたしは、八重さんのことをたぶん一生忘れない。
川に行くたび、きっと、思い出す。
で、結局見終わったあとに残る最大の「?」が、綾瀬はるか。じゃない静香コーチだ。
小鳥遊は記憶ももどり、水の恐怖も克服し、シンママと結ばれてめでたし。小鳥遊嫁も再婚めでたし。
おばちゃんたちは最初からずっとめでたし。
その一方で、彼女の魂は、救済されないまま、放置されて終わる。
道路をまともに歩けないくらいのトラウマを抱えた彼女は、陸に上がれない人魚姫のままで終わって、いいのかい?
静香コーチは?
静香コーチはどうやって境界線を超える?
夢見るように泳ぎたい
パンフレット(非常に凝っていて抜群のセンス、これは価値あり)のインタビューを読んだりしてると、
演者も、なんとなくしっくりこないまま撮影が進んださまがそこはかとなくにじみ出てて、さもありなん、と。
もう少しで役に〈感情移入〉できる境地に手が届きそうなのを、監督の脈絡ない〈アイデア〉で遮られる。
そのくり返しだったんじゃないかな、と。
少なくとも観ているわたしはそんな感じで、ちょっとずつちょっとずつ、伸ばした手をひっこめた。
監督の言によると、原作をどう映像化しようかと考えたときに
「主人公がスイミングスクールに通う理由さえ作れば映画になる」、
だけど「傷をもった人間でなくちゃ動機が弱い」となって、
最終的に子を交通事故で亡くした知人の方を設定にもってきた、と。
いや監督の中でこのエピソードが軽いものだとは思わないです。ぜんぜん思わない。
だけど、物語をつらぬくはずだった「喪失と再生」の手ざわりに、監督自身はいまだたどりつけてないんじゃないか、って思う。
だから頭で考えたモティーフが、そのまま、頭で考えた映像になった。
予告編動画を見て想像できる、そのまま。
いっそもっと振り切って、
静香コーチによけいなトラウマ設定背負わせないで【スイミングサイボーグ】として登場させればよかったのに。
1mmもわかりあえそうにない屁理屈おじさん VS メカ人魚のほうが、むしろ説得力があったんじゃないか。
すくなくとも静香コーチの妙に哲学チック心理療法チックなセリフの数々に、だいたいピントはずれ、なのにたまに超どストライク、っていう醍醐味が出たんじゃないかと思う。
綾瀬はるかのあの絶妙なマシーンっぽさも生きるし。
1シーンだけ出てきた小林薫もさすがでした。
あの場面がなかったら、小鳥遊の病み具合が実感としてつかめなかった。
少ない言葉数とたたずまいと距離感で、主人公の闇の輪郭をきわだたせてくれた。すばらしいお芝居。
奈美恵もよかったです。
シングルマザーとしての描かれ方がわりにテンプレ気味で、この人と小鳥遊先生がどう恋愛に発展したのかすごく疑問ではあったし、家族のトラブルで心に傷を負った中年男性が子連れ女性とつきあうことでリハビリしようとする…という構図は正直もうそろそろやめようよとも思う。
そういうのすべて帳消しにしていいくらい、中の人、阿部純子さんの表情がよかった。
そして、俺たちのハセヒロは、やはりハセヒロでした。
こういう毛色の人物ははまり役だし、丹精された演技力で2時間近く魅せつづけてくれました。
鍛えてるんだか野放しなんだかぎりぎりわからないようなリアルな中年の肉体も、文句なし。
で、だ。
そんな信頼と実績の長谷川博己が、作中もっともヤバい顔してたのは、じつは「日暮くん・ザ・スリーピング最前列」とのシーンだった。
居酒屋のコンパの席で。
講義終了後の黒板前で。
”茶髪の眠り姫”学生の日暮くんと向き合って語り合うときの小鳥遊の顔。あれは激ヤバだったでしょう。
小鳥遊先生、こんな目つきするんだ…ってゾクゾクした。
教える者が、ふと意表をついて〈一線を乗り越えて〉きた教え子を見る、あの喜色に満ちた瞳の輝き。
やさしい笑顔なんだけど、目が狂気なのよ。
「 ヒトはなぜ生きるのか 」って、夢見るようにささやくのよ。
わが子を救えず記憶も失った哲学教授は、絶対ああいう目をする。
ずーっとピロちゃんだったけど、あそこだけハセヒロだった。
あそこのハセヒロが一等よかった。セクシーですらあった。
生と死、喪失と救済…みたいな大きな風呂敷を広げないで、
もっとシンプルに「教える者と教わる者」というテーマを描いても十分だったという気がする。
学ぶということ。
師を見つけ、師に教わるということ。
誰かを導くということ。
昨日の自分を超えてゆけるということ。
日暮くんの言うとおり「小さな日常の発見を期待してヒトは生きている」ということ。
世界はいつでも開かれるということ。
陸でも、水中でも。
すてきな物語の一歩手前で、もったいなかったな。
リトグリの曲のPVみたいに見えちゃうかもな。
ヨーグレットをポリポリかじりながら、こういうのでいいんだよ、とわたしの中の井之頭五郎がつぶやいた。
蛇足ながら、ストーリーに入り込めなかった言い訳2点。
▪麻生久美子を見た瞬間、こんでんさんの秀逸ウソ字幕動画が頭に浮かんでしまった。役はクソだったけど、麻生久美子は女神。異論は認めない。
▪亡くなった息子さんの部屋のロフトベッドが、うちの息子氏のベッドと同じだった。IKEAの色違い。
とくにベッドはヤバかった。
あれ見ちゃった瞬間、もう頭の中がわが子でいっぱいになってしまった。
子どもを描いたドラマはなかなか距離感むずかしいね。そこはまったく自分側の問題です。