東日本大震災を忘れない(2)-震災翌日と翌週
こんばんは。今日もお疲れ様です。
東日本大震災を忘れない(1)-震災当日を振り返る
の続きになります。
大震災で亡くなられた方々に対し、心より哀悼の意を表するとともに、
ご冥福をお祈りします。
震災の翌日と翌々日
当時、2011年3月12日、日付が変わった深夜に帰宅してから、自宅に居る間はずっとネットにつないで状況を確認していました。
思いついて、近所のスーパーに買い出しに行きました。
その日は、食料が枯渇するとは想定しておらず、震災前と同様、向こう1週間で必要な分しか購入しませんでした。
ガソリンも給油しに行ったのですが、そちらもまだ長蛇の列は出来てませんでした。
こんな事態の中、原発事故のあった福島の状況を調べに調査隊を派遣した民間の団体がありました。
電車が動いてないので、自家用車で行ったのだと思いますが、ガソリンが続かないと思われますので、短期間で引き揚げになるかな、と思っておりました。
調査の結果に基づき、ボランティア団が結成される予定でしたが、何故かそちらの連絡は入らず、何か想定外の状況だったようです。
民主党本部からは、議員本人は被災地には入らないでくれ、と言ってきました。
理由は、ボランティアで入っても、身元がわかると警察などが対応せざるを得ないため、救助作業の邪魔になる、ということです。
報道によると、各党で地元に入らないようにとの申し合わせをするようでした。
防衛省は、10万人の自衛官を投入して、被災地での救出活動を展開していました。
事務所で出来ることは何?と、声を上げました。
すると、海外からの民間支援を、窓口たる外務省につなぐところが、うまく出来てないということが判明しました。
翌週は、出勤してその対応をずっと続けました。
息子たちの卒業祝いで外食
そんな中、13日の日曜日に、家族で外食しました。
当月は、長男が高校を卒業し、次男が中学を卒業したので、近隣のレストランでささやかに祝いました。
当時は二人ともまぁだ育ち盛りなので、たくさん食べれる食べ放題のお店を選びました。
中学生以上の大人、一人1,449円でビュッフェ食べ放題、ドリンクバーが126円で飲み放題なんです。
前菜が山ほど種類があります。
二皿め。
奥の中央は、フルーツのマリネです。
この豆も美味〜。
スープ。
パンやら鶏肉団子を入れて、トマトソースで即席煮込みを自分で作れるんです。
これが家族に好評で、もう一杯作りました。
いい気になって(笑)三杯目はコラーゲンソースで。
パインヴィネガージュース。これが色も綺麗だし、美味い。
〆はカフェラテでまったり。
当時、糖質を目の敵にしていた私は食べてませんがw、チョコレートフォンデュ。
これは、チョコレートフォンデュを提供するための機器を輸入したんでしょうね。
デザートコーナーも充実。
ビスコッティがあり、これだけカフェオレと一緒に頂きますた。
今から思えば、そんなことは全くなかったのですが、緊急で出勤することがあるかも知れないと思い、アルコールは一切口にしませんでした。
翌週の出勤と原発
翌日、3月14日(月)から、東京電力が計画停電を実施しました。
時間割の発表がドタバタしましたが、非常事態ですから仕方ありません。
自宅は何度も停電になり、その都度家内は冷蔵庫を開けないようにしてました。
議員会館のある千代田区は、計画停電実施地域から外されており、そのことにはなんとなく後ろめたさを感じました。
翌週は、福島第一原発内に留まっている、東電社員50名による懸命の作業が続いていることに、世間の耳目が集まっていきました。
50 Japanese Workersのことは、日本より海外で多く報道されているようでした。
映画化されたのは、このFukushima 50の話ですね。
のぞえが勉強してたのは、こちらの夕べアップされた説明資料↓
http://online.itp.ucsb.edu/online/plecture/bmonreal11/rm/flashtv.html
カリフォルニア大学サンタバーバラ校物理学科のBen Monreal教授が作成してくれたスライドです。
(お使いのブラウザで、Flash Playerの動作をオンに許可する必要があります。)
Ben、サンキュ。
約82分のビデオですが、この資料の日本語訳は、以前はこちらにあったのですが、10年経って削除されてしまいました。
http://ribf.riken.jp/~koji/jishin/zhen_zai.html
英語のビデオを聞いてると、ニューヨークタイムズ等の海外のメディアが、如何に冷静に、福島第一原発で作業をしている人たちが致死量の放射能を浴びる危険性と可能性について、分析しているのかが分かります。
日本のメディアで、このような記事を一切目にしませんでした。
日本は唯一の戦争被爆国でありながら、福島第一原発で作業をしている人たちが、どれくらいの危険な状況にあるか、分析した結果を一切見ません。
私の後輩に、IAEAに出向し、その後福島原発の担当になった男が居ます。
IAEAも彼の実力を認め、通常は3年間の出向期間を2年間延ばした、プロフェッショナルです。
地震発生時も、福島第一原発勤務中でした。
彼の奥さんも、東電出身です。
だから、事故発生直後から、事情を知り尽くしているだけに、奥さんは毎日泣き暮らす日々です。
のぞえは直接やりとりしてませんが、毎日、その奥さんに励ましのメールを送り続けている人の許に、この週、とうとうこんなメールが届きました。
「これからの人生は、2人の息子と3人で過ごすことになる。ようやく、気持ちの整理がついた。もう、泣いているわけにはいきません」
この話を、私は出勤前、国会議事堂の前を歩いているときに読んだのですが、不覚にもその場に立ちすくみ、大粒の涙をひとつ、歩道にこぼしてしまいました。
被爆しながら、50名の東電職員が福島第一原発に居残り、日本を救うために、そのために、全力で闘ってくれていました。
上記の海外の研究者Ben Monrealも、最悪の場合でも、日本全体への被害は限定的との意見でした。
ただし被害が限定的になるのは、その50名の自己犠牲の上に成り立つものであったことを、肝に銘じておかなければなりません。
そして私は、これまでの東京における自分達の生活は、福島の人達が生活基盤のすべてを失ってしまうようなリスクの上に成り立っていたのだということを、つくづくと思い知りました。
そして、大手マスメディア各社は、被災地での取材で自社の記者が二次被災しても保険金がおりない、ということを理由に、東京から出張で記者が取材に行くことを禁止していました。
週末、現地で民主党国会議員の有志がボランティア活動を実施することになり、その手配を手伝いました。
警察のアテンドは、10年経った今では正確な対応内容は思い出せませんが、現地の救助活動の妨げや負担にならない方法を東京側で考案してくれて、それに沿って実施したと記憶しています。
その週、自分に出来たことは、外務省との繋ぎと、このボランティア活動の後方支援のみでした。
翌週の25日の金曜日には、参加者を議員本人のみならず、秘書も参加OKということになりましたが、参加希望者が多過ぎて抽選しないといけなくなり、私よりも若い人の方がたくさん作業出来るでしょうから、私は辞退することにしました。
4月に入ると、衆議院議員の高橋さん(すみません、下のお名前を失念してしまいました)が手配してくださり、大型バスを2台以上調達できるようになったので、私も参加できるようになりました。
そしてこの週以降、私は何の新しい支援策を主体的に考え付くこともできないまま、罪ほろぼしのように、週末のボランティア隊に参加するしか能のない人間になっていくのでした。
しかし、今振り返ってみても、どうすればもっとよかったのかは、いまだに思いつきません。
続きは、また明日。