東日本大震災を忘れない(12)-宮城県亘理郡山元町へ
おはようございます。今日の復興ボランティアの思い出話は、少し下に説明している理由で画像が少なくなるので、早い時間に仕上がりました。
(4連休は、自転車で買い出しに行くぐらいしか作業がないので、画像の準備が捗ります。)
最初に、大震災で亡くなられた方々に対し、心より哀悼の意を表するとともに、ご冥福をお祈りします。
これ以降のボランティア活動では、申し合わせにより活動中の写真は撮らない事となりましたので、活動の前後の画像だけになります。
すみませんが、あらかじめご了承ください。
震災ボランティアは、民主党では大震災が発生した3月から実施し、私は当初事務方でお手伝いしましたが、4月には1回、5月にもプライベートで被災地入りした以外にもう1回、6月以降11月までに6回、震災ボランティアで被災地入りしました。
他に、秘書会の親睦会も、被災地に行ってお金を落とすようにしました。
2011年ゴールデンウィークの最終日には福島県相馬市に行きましたが、そのすぐ北、宮城県亘理郡山元町に当月中に行って参りました。
あ、亘理郡は「わたりぐん」と読みます。
山元町は、トップ画像の通り、今はひまわりが250万本植えられていることで有名ですね。
いつものように夜中に夜行バスで東京を出発し、途中国見SAで休憩。
朝4時は、空が綺麗です。
東北自動車道から仙台南部有料道路に入りました。
ゴールデンウィークにも通過した名取市を南下します。
津波の跡が高速道路の両側に広がります。
仙台までは行かず、白石市、角田市の東側まで戻ります。
福島県相馬市のすぐ北側まで高速道路が続きます。
高速道路でも段差があり時折バスが大きく揺れます。
終点の山元から一般道に入り、コンビニで休憩です。
現地にはトイレがないそうです。。。
ボランティア隊は、回を重ねる毎に女性の参加率が増えてるみたいです。
一方瓦礫撤去は、自衛隊が行方不明者捜索の延長で各部隊が交代で作業をしてくれており、また地方自治体の委託作業で民間の業者も多く入り始めたことから、専門家が重機軽機を導入して作業が始まっていました。
でも、人手を投入しないと作業が進まないケースもあり、今回はそんな場所に行って作業してまいりました。
外国製の防塵マスクが支給されます。
防塵グラスはあいにく使い回しなので、消毒スプレーをかけてもらって自分で磨きます。
リーダーが「今回は重機が入れない場所に行って作業ですよ」と言ってましたが、現地に着くまで意味がよく判りませんでした。
なんせ津波で一切合切そこいらじゅう、全部流されてしまった地域なのですから。
お寺に到着しました。
なるほど、墓石は津波でも流されなかったのですが、重機が入って壊してしまうといけないので、まず人が立ち入って瓦礫を除去します。
この写真は、作業後のものなので、ほとんどゴミもないまでに片付けたところです。
墓石自体は、専門の業者さんが来て、復旧してくれます。
正面にお寺の本堂が見えますが、全部突き破られてるので、横の壁がありません。
作業前は、倒された大木が積み重なっていましたが、NPOの方がチェンソーを持ち込んで、みるみる切断していきます。
人の運べる大きさになったのを、男性二人組でトロッコで運びます。
女性陣は、細々したごみを拾い集め、集積場所に運びます。
のぞえは最初トロッコ組に居たのですが、普段議員会館で顔見知りも多く参加してるので、知り合いが通り過ぎる度に心配かけてしまい、
「のぞえさん大丈夫ですか」「大丈夫ですよ」
「のぞえさん大丈夫ですか」「大丈夫」
「のぞえさん大丈夫ですか」「大丈夫...」
「のぞえさん大丈夫ですか」「・・・」
・・・程なく脱落し(笑)、残ったごみがないか見て回ったり、ごみ集積所で分別の作業に回りますた。(汗
もう〜、大丈夫かどうかは誰かが代表して聞いてよ!(笑)
まぁ、普段使ってない筋肉を使ってるので、動きがぎこちなかったです。
それより、時折突風が吹いて、防塵マスクをしててよかったと思いますが、耳の中がざらざらになってしまいます。
電柱から外れた電線まで落ちてたのですが、感電する危険が全くありません。
だって、街中停電してるのですから。
トイレもないので、お寺が用意してくれたマイクロバスで、女性陣はたまにトイレのある場所まで行って帰ってきます。
午前10時頃、福島沖で震度4。
外で作業していても感じました。
いったん作業の手を止めて退避準備。
津波の可能性がないことを確認出来たので、作業再開です。
疎開していたお寺の住職さん一家は家族総出で歓迎してくれ、自分達も作業に加わったほか、ボランティア隊のお昼まで提供してくれました。
こんな新鮮なお刺し身なんか、ホンとどこで大量に調達してくれたのでしょう。。。
50人程も居るメンバーに、豚カツを山ほど入れてくれたカレー。
カレーのルウが半端ない美味しさで、大量に余ったようでしたので、思わずおかわり。
直感的には、カレーを用意してくれた人は、専門のシェフさんですね。
「やぁ、美味しいですよ〜」と賞賛したのですが、素人が褒められて喜ぶ喜び方ではありませんでした。
欧風カレーに見えますが、「ちゃんと、ガラムマサラが入ってますね」と言ったら、やっとニッコリしてもらえました。
この人の職場も、もしかして流されてしまったのかも知れないな、と思い、お店の名前は聞けませんでした...。
東京ナンバーの車が止まり、「この近くに保育園があった筈なのですが」と初老の男性が顔を出しました。
東京から、ご親戚を探しに来たのでしょうか...。
お寺の場所から類推できる筈ですが、そこに建物の影も形もなかったのでしょうね。
8割方は片付いたでしょうか。
そろそろ東京に戻らないと終電に間に合わなくなるので、引き揚げです。
住職さん一家が一列に並び、最敬礼してくれるなか、バスが出発です。
深々と頭を下げながら、でも住職さんがこう叫んでました。
「来週も、また来てくださ〜い」
ボランティアにとっては、最高の褒め言葉でした。
でも、来週、当初から計画していた人員と、それに見合う貸し切りバスの手配を考えると、今回より明らかに人出が少なくて済んでしまうであろうこちらの作業には、民主党ボランティア隊の陣容では余分な追加作業は、もう出す余地がなかったのでした。
GWをピークとして、ボランティアをしてくれる人の数が、どんどん減っていました。
被災地では、まだまだ人手が足りない状況でした。
ボランティアばかりやってる訳にはいきませんが、でも、真夏には屋外作業は僅かしかできないな、という気もしました。
一方、夏休みには大学生さん達のボランティア参加も期待できたので、5月や6月のうちに済ませてしまいたい作業を中心に、被災地と調整だな、と思いましたし、仲間うちでもそのような認識でした。
帰る道すがら、通り過ぎる建物建物、こんな大規模DIYセンターまで、無人です。
営業再開の目途なんて、まだ立たないのでしょうね。。。
土台を残して、あと全部流された家も多数。
「家は一生の宝物」なんて言って、ローンを組んでこうなったらやりきれませんよね。
地図で「常磐線」となっている箇所を通過したら、線路まで流されてしまってました。。。
線路のなくなった先にディーゼル車だけ残ってますが、その後関係者の尽力により、現在は全線で復旧しています。
風の強い日だったので、体からだいぶ水分奪われてしまいました。
口の中もざらざらするけど、支給されたミネラルウォーターをごくごく飲み干します。
阿武隈川を渡りました。
川岸には、何事もなかったかのように、菜の花が咲いてました。
途中のPAで、ずんだソフトクリームを食べます。
おっと留守宅へのお土産は、やっぱりこれ。
コンビニで買っておいた、ボルビックも飲み干してしまった。
同行した女性陣からお菓子の配給です。
前回と同じSAで晩御飯です。
今回は生姜焼き定食にしますた。
午後10時半に東京駅に到着し、解散しました。
翌日は、ぐるなびの食日記でやりとりさせて頂いていた、銀座いろり家の店長、通称たねさんも宮城に炊き出しに行ってくれました。
フランス料理の銀座Kanseiの坂田幹靖シェフも、炊き出しを続けてくれてました。
この週の翌週は、月が改まって6月になりましたが、石巻に行きました。
次回は、その話をします。
被災地全体から見れば、50人程度のボランティアが半日程度作業しただけで大きく復興が進む訳でもなんでもなく、微々たるものでしかありませんでしたが、その50人が議員会館に戻って、復興予算の検討をする議員達のサポートを、現場を見て来た者として支援できることが強味にもなるだろうと、信じていました。
また、各事務所でボランティア経験者が、「自分も参加してみようかな」と思って連絡してきた人達の面倒を見てくれ、その後参加者がじりじり増えて支援の輪が広まることに貢献もしました。多少は。
では、また明日。