タフネス、クィアネス! ケイト・ブランシェット
物事が自分にとって上手くいっている時は、我がアイデンティティなどほとんど自覚していないが、何か問題が起こった時や居心地の悪さ、不安や屈辱を感じた時にそれは意識され、自分事としてのアイデンティティが必要となる。
と、思っていたのは少し前まで。今急に、それは変わってきたのではなかろうか。平時から、“自分の核とは何かを心や行動の中にはっきりさせる必要がある時代になった”と思う。それは人生100年時代といわれるからなのか、“平和”のありがたみを感じざるを得ないような平和でない時代に突入したからなのか。大事な時間をどんなことに使えば、揺るぎのないタフネスな自分の規範を得ることができるのだろうか。
私にとって映画を観るということは、規範性の更新。今まで常識や理性だと思ってきたことを壊して立て直すという学び、“守破離の連続”とでも言おうか。ともすると、生活の中では自分を守りたくなるものだが、視野の狭さや固さは自分を苦しめるだけである。
新たな視点を与えてくれる映画になぜかいつも女優ケイト・ブランシェットがいる。画面に彼女が存在するだけで、新たな規範が生まれる程の斬新な説得力を放つ。単にマスキュリンとか、破天荒とか、権威的なのではない。バージンクィーンの賢くてしなやかな少女から変貌した迫力のラストシーンが印象的な初期の代表作『エリザベス』、元祖クィア女優キャサリン・ヘプバーン役の『アビエイター』、高貴で美しいレズビアン映画『キャロル』、最近では、パワー&セクシャルハラスメント社会の闇の構造について哲学的な結末を描いた『TAR/ター』。その演技力には、こちらのジェンダー思想や偏見意識を数段階柔らかくしてしまう力がある。言葉で理解していた感情や社会的な思想を、言葉を越えた境地の、多角的で詩的な形にまでして心に浸透させてくれる。もちろん、監督・脚本その他、作品としての映画力によるものであろうが、ケイトの魔法は実に背筋が伸びるものがあるし、どんな特異な世界感も自分事として入ってくる。
タフでクィアでオリジナルな自分づくり。安易な時流にのみこまれるな。日々の思考、習性、姿勢、習慣の全てを鍛える場にして、ケイト・ブランシェットのように。