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改めて自分と衣服の関係の歴史、を思ってみる

今、家の用事で東京にいます。
広島アトリエにも、代々木Baseにも
テレビはないのですが、
代々木には私が好きそうな番組を
録画がしておいてくれる機能があって
代々木ステイの間は可能な限り
それを観ています。

ある番組で、「昭和を振り返る」ものがあり、
少し前だったら「昭和のノスタルジー」みたいな
扱われ方だったものも、
オリパラ2020がこんな中にでも
開催されてしまうこの力は、
どこから【間違って】大きくなってしまったのだろう、

というところの『昭和』になっている。
それは、私だけの気分なのか?

でも、自分の中にその色眼鏡がセットがされてしまうと
次に目にする、耳にするものも
その延長上にある、というものだ。
これが時代というものなのだろう。

広島にいると、
私のバブルはとても小さいので、
今みたいな生活習慣基準では、
東京の生活に比べてとても有効で、
私の中の東京の価値は下がる一方なのだ、

少なからず、
“ファッション”という時代とひとの心、
個人の見た目と社会の意識、みたいな事に
大いに興味がある私にとっては、
こうした東京での感覚も
考える事が多くて
たまには必要なのだ、と思う。

今、「ファッション・イン・ジャパン」が開催されている。
(まだ行ってなくて今週いく予定なのだが)
それもあってか、
書店にあるものに
「ファッション」をテーマとしたものが目につく。
それを読んでいると、
先ほどのテレビ番組と同じく、

自我ができてから半世紀以上経っていて
服に興味がある自分にとって、
自分に流れている時代時代の中に
鮮明に「その時の感覚」「選択の気分」
が蘇ってくる。

例えば、
歌謡曲や宝塚歌劇団や韓流に
のめり込むように、
時代の王道に気分をおいて
(置いてどころか染まりきった)
いるところもある自分なんだけれど、

もっと大きな生きる気分に対しては
かなり反抗的で生意気な
ものだったのかしら?
と思ったりする。

そこで、ちょっと
『自分で初めて選んで買った服』
などを思い出してみた。

さて、
それがどうなのか、
は次回に続く。
こんな時期のトウキョウにいたからこその
何かを
思ってみる日々にしたい。

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