「軽蔑」(1963 J=R・ゴダール)
毎日の生活が“映画のように”なればいいのになって思う、って思っていたのは小学生の頃。20代には真剣に“映画と本当の生活はなぜ、違うのだろう?”って思い始めて、30代には、“映画のように生きるべき”って休日限定で実践してみて、40代に“死ぬ前に映画のように生きてみよう”って決めた、私です。映画人でもなく、映画研究者でもなく、ただのファッション屋なのですけれど。つまり、映画を観ている時間だけその世界にはまるのではなく、はまりたい世界があるのなら、実生活でも生活の全部が、やりたいようになりたいように、やればいい。それがファッションだ、と思っているわけです。
愛し方、着方、着崩し方。暮らし方、食べ方、トイレの座り方、、、、それぞれに。胸元の開け方、タバコの吸い方、サングラスのずらし方、絵のかけ方、カンパーニュの切り方、ワインの注ぎ方、新聞の抱え方。よく考えてみると、私のファッションデザインの元は、観てきた映画にあるのかもしれない、と最近感じています。
10代のころ、とにかくカッコイイと思って、自分のそれからの「いい感じ」の方向を決定づけたのが『フランス映画』。特にゴダールなんかの映画。話の理解なんてまったくできていなかったのだけれど、女性に生まれたからには、あんなふうに生きてみたいって、とにかく感性に響いてしまった。
それまでの常識のある頭では、ストーリーが理解できないのがきっとまた良くて。理解しようなんて思ってはいけないのだと、生まれて初めて思ったものだ。頭で観ないとすると目?心?特に目からの刺激で好きなのが、『軽蔑』。
くり返されるのは、倦怠期夫婦のののしりあいなのだが、そのけんかの後ろに映しだされる“彼らにとってはフツーの生活”が、なんともおしゃれなのだ。今風の私だったらきっと、1日がかりで何回も撮りなおしてセットしないといけないくらいの画像が、(もしかしてゴダールたちだってそうだったのかもしれないが)いかにも“いつもの感じ”のように。若さと勢いとそれまでの想いの凝縮で、一気に撮られたであろうヌーベル・ヴァーグのフィルムたちは、撮っていない時もそのままだといわんばかりの自然さで、圧倒的な『普通が素敵』を見せつける。
タクシーへの飛び乗り、話のはぐらかし、ちょっとずらした赤違いの服。全時間の根底に流れる「詩」の存在。海・海・海。窓・窓・窓。自然とスタイルと崩しのバランス。人工の色と自然のいろのスタイリッシュなバランス。強い日差しと哀愁の旋律。水平線とボーダーシャツとFIN。
子供の頃に、何故かわからないけれど、大人になってインテリアを自分で決められるようになったら、絶対にバスタブを部屋の真ん中に置くんだと思っていて。大人になり始めの頃にしきりにトライしてみたのも、きっとこの映画のせいなんだ、と改めて昨夜思ったり。
映画のシーンにあやつられて、生きて大人になっていくなんて、こんな幸せなことはない。
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